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イエスが岸に立っておられた(ヨハネによる福音書21章1-4節)

<弟子たちの姿>
JPGペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、名前が記されていない弟子2人の、7人がいた。ペトロが「わたしは漁に行く」と言い出す。食べ物を得るために、漁へと出かけていこうとするペトロに、ほかの弟子たちもついて行く。「わたしたちも一緒に行こう」。彼らは船に乗り込み、夜の湖に漁に出た。そして彼らは、夜通し働いた。しかし、いっこうに魚はとれず、時間ばかりが、むなしく過ぎていき、朝を迎えてしまう。結局、魚をとることはできず、疲れと困惑をもって弟子たちは岸に戻っていく。

<努力しても報われない時>
 私たちもまた、思いどおりに行かず、何の成果も挙げられないまま、むなしさと疲労を抱えて、帰ることがある。一生懸命努力したのに、何の成果もない。何の収穫を得られない。むしろ、その努力が無駄であったのではないか、始めからやらなければよかったのではないか、そんな思いに捕らわれる。うつむいて帰る。体が感じる疲労感よりも、心が感じる疲労感のほうが強いこともある。満たされない。心を枯らして、帰るのだ。満たされない心。枯れた心。そんな心を満たそうとして、私たちは世の中に特効薬を求める。
 
<特効薬の効き目?>
そういう時の特効薬を、きっと誰しもが持っていて、試したことがあるだろう。友達と馬鹿騒ぎしてみたり、お酒におぼれてみたり、DVDや映画を観て泣いてみたり。一時しのぎには、効果的かもしれない。だけれども、不安感や孤独感を本当に拭い去ることはできないのではないだろうか。本当には、効き目を実感できない。どこかむなしさが残るのでは?
決して根本的な解決にはならずに、自分自身を責めることをはじめ、自分自身を諦めるようになる。どうせ、自分はこんなものだと、そう自分で決め付けることで、解決しようとする。そして、より一層の疲労感を味わうことになる。
 
<迎えてくれたイエスさま>
弟子たちは、からっぽの船と、からっぽの心と、疲れがたまった体をもって、岸に向かって帰って行った。既に夜があけて、あたりは明るくなっているのに、彼らのところだけ、闇が覆っていた。
 
しかしそんな彼らを見つめるまなざしがあった。
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。
だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」。(ヨハネによる福音書21章4節)
 
からっぽの船を見つめる弟子たちを、岸で迎える人がいたのだ。しかし、弟子たちはその方がわからない。からっぽの船を見つめていたからだ。その人は、声をかけてきた。「子たちよ、何か食べ物があるか」。彼らはうつむいたまま答える。「ありません」。
その人は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言う。彼らはその通り行動した。動かなくなった心で、言われるがまま行動した。すると、魚が本当にとれた!しかも、網を引上げることができないほどの多くの魚が!彼らは、岸から自分たちに声をかけてきた人のほうを見る。そこには微笑む顔があった。彼らにはその顔に見覚えがあった。「あ、主だ!」。イエスさまが、岸に立って弟子たちの帰りを待っていてくださったのだ。しかも、その岸には、疲れて帰ってくる弟子たちのために朝ごはんが用意してあった。
 
<イエスが岸に立っておられる>
 満たされない心、枯れた心で帰るあなたを迎え入れてくださる方がいる。自分自身の欠点ばかりに目を向け、自分を責め続け、自分を諦め、暗闇の中にたたずむ私たちに、温かなまなざしをもって見つめ、声をかけてくださる方がいる。それがイエスさま。恵みを用意して、待っていてくださるのだ。私たちが立ち上がれないほどの疲れを覚えていることを、深く知っておられる。だからこそ、あなたのために「イエスが岸に立っておられた」。イエスさまは、私たちを愛し、御守り続けてくださる。そんなイエスさまの温かな眼差しが今、あなたにも向けられている。
「おかえり、疲れたね。さあ、朝ごはんをどうぞ!」。