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植村正久の人となり

 植村正久は、日本を代表する説教者・神学者として知られていますが、その人柄には厳しさと温かさ、情熱とユーモアが同居していました。ここでは、『植村正久と其の時代』1巻から5巻(1937-1938)に収録された証言の中から、植村の人となりを伝えるいくつかのエピソードを紹介します。紹介にあたっては、掲載されている節のタイトルと『植村正久と其の時代』の巻とページを示します。引用の際には現代語に訳して引用します。
 

1. 植村正久の容貌

 植村正久の容貌について、大隈重信が「植村の顔は少しも耶蘇顔でないではないか。耶蘇の人と言えば、痩せた、細長い、青白い、寂しそうな顔をしているものだが、植村は、まるで、相撲取の様に太ってゴツゴツした顔付ではないか」と語られたと、田川大吉郎は植村全集刊行披露講演会で述懐しています。(「彼の容貌」、1巻、617-618) また川添万寿得が、米国留学中、その部屋に、植村の写真をかけていたところ、それを見た人が、「この方は胃痛の患者か、そうでなければ、よほど偉い人だね」と言ったという話を植村の子どもたちに書き送っています。(「彼の容貌」、1巻、615) いつ雷が落ちるかわからないようなむずかしい容子をしているかと思うと、たちまち相好をくずして爆笑し、目を細くして、人前をもかまわずに、子供たちを可愛がったと書かれています。(「彼の容貌」、1巻、618) このように、厳格な印象を与える一方で、子どもたちを心から可愛がる温かな一面もありました。
 

2. 訥の雄―― 味わい深い説教者

 植村がとつとつとした語り口だったことはよく知られています。松山高吉は以下のように植村を評して言います。「植村君は、『自分は口下手でうまく伝道ができないから、せめて文章の上でだけでも、心の内にある熱い思いをありのままに表現して、伝道の重要な任務を果たしたい』と願い祈っていましたが、その祈りが聞き届けられたのでしょう。……文章で世を渡るプロの優れた文士たちと肩を並べても全く遜色のないほどの文章家となりました。…..彼自身が不得意だとして自ら避けていた弁舌(説教)の面でも、訥弁ではありましたが、かえって『訥の雄』と呼ばれるようになり、一言一句がまるで魂の手形であるかのような、あの名説教家となりました。」(基督教家庭新聞第20巻第9号)(「植村正久の終焉」、5巻、189
 徳富蘇峰は、植村について次のように語っています。「君(植村)は決して世間で言うところの雄弁家ではありませんでした。……..その演説は、とつとつとしており、ちぎれ雲が山の中腹にたなびくような趣がありました。友人の島田三郎君の『立て板に水』のような流暢な話し方とは全く正反対でした。それゆえ、君の説教は多数の民衆をたちまち惹きつけるようなことはありませんでしたが、必ず常連がいました。それはちょうどサトウキビを噛むように、言葉を噛みしめるものでした。長く噛みしめれば噛みしめるほど、その味わいが深くなるのでした。(「植村正久の終焉」、5巻、1061-1062
 

3. 澤山保羅(パウロ)の信仰体験を聞いて号泣

 芹野與太郎の著書「祈りの人 澤山保羅」に松山介石の文章として次のような話が紹介されています。「先生(澤山保羅)が『その時、妻が不思議に思い、また心配して色々と尋ねてくるので、聖霊に感動した体験を話して聞かせると、妻もまた聖霊に感動して泣き出したので、二人でひれ伏して祈ったのです』などとお話しになると、今度は(それを聞いていた)植村君がまた泣き出してしまうという騒ぎになりました。」(芹野與太郎『祈りの人 澤山保羅』日曜世界社, 1930,126) (「澤山保羅」、2巻、241) 信仰の体験に感動して思わず泣き出してしまう植村の涙もろさが現れているエピソードです。信仰の出来事に深く心を動かされ、思わず涙を流してしまうほど感受性豊かな人であったことがうかがえます。
 

4. 植村のユーモア

 植村のユーモアについても紹介されています。植村は非常にせっかちな性格でそのことをよく自覚しており、教師試験の際、自分の説教原稿の裏に「いそがすばぬれまじものを旅人のあとより晴るる野路の村雨(急がなければ濡れなかっただろうに、通り雨なのだから)」という和歌を書きつけて周囲に見せ、ユーモアを交えて自らを戒めていたといいます。(「下谷教會」、3巻、51) また、不忍池畔の長酡亭でよく親睦会を催していた頃、寄せ書きをせがまれた植村は、「誰もかけ彼もかけよとせがまれて せん方なさに恥をかきけり」という狂句を詠んだと紹介されています。(「下谷教會」、3巻、61) 厳格な神学者という印象とは異なり、植村は自らの短所を笑いの題材にするユーモアと、人を和ませる親しみやすさを持っていました。
 

5. 読書家・植村正久

 植村の説教は、西洋の最新の神学書から古今東西の文学作品に至るまで頻繁に引用されており、その博学に驚かされます。本多庸一の回想によると、若き日の植村は「古本探しが巧み」でした。当時、横浜元町あたりの古道具屋には帰国する西洋人が売った英書が安く出回っており、英語が読める人が少なかったため、植村はそこで良い本を安く探し出しては熱心に読んでいたと記されています。(「基督教と文學」、4巻、470) 植村の幅広い知識と豊かな説教は、このような若い頃からの読書と学びに支えられていたのでしょう。
 
 これらの逸話からは、植村正久が単なる神学者や説教者ではなく、深い信仰と豊かな人間味を兼ね備えた人物であったことがうかがえます。厳格さの中に温かさがあり、学識の背後には絶えざる努力がありました。また、深い信仰と豊かな感受性、そして人を和ませるユーモアも備えていました。そのような植村の人柄もまた、今日の富士見町教会に受け継がれている大切な遺産の一つです。