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新しい契約の血

説教要旨(8月9日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 26:26-35
牧師 藤盛勇紀

 「最後の晩餐」と呼ばれている食事がすでに始まっています。主は、「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る」と言われ、弟子たちは驚き混乱しています。その食事も中心部分に進み、主は言われます。「取って食べなさい。これは私の体である」。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。イエス様の身に迫る死の予感。弟子たちの間に吹く猜疑心と不信感の冷たい風。何とも言いがたい空気が漂います。
 食事も終わり一同はオリーブ山へ行きます。主は最後の予告をしました。「今夜、あなたがたは皆私につまずく」。なんと、主を裏切る者は全員だと。しかも今夜。最後のダメージとなる一撃です。動揺は不安と絶望になり、精神的なダメージも深く、疲れ果てています。
 しかし、ペトロは主に対する自分の信仰と忠誠を絞り出すように宣言します。「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません!」。ところが主は、ペトロの裏切りを断言します。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うだろう」。なのにペトロは、主の言葉を塗り潰します。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。「弟子たちも皆、同じように言った」。
 この虚勢がかえって彼らの絶望を表しています。主が断言なさるのは、弟子たちの希望の無さです。愛も信頼も崩れている。どう虚勢を張ろうと、すでに終わっているのです。しかし、イエス様だけは希望に立っています。だから約束を語るのです。「私が復活した後…」。
 弟子たちは、あまりのショックで全く受け止められません。弟子たちは皆、自分の信仰や忠誠や覚悟を大胆に表明しますが、主はそんな弟子たちの「自分の何か」など眼中にありません。ただ一言、「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われます。主は弟子たちの裏切りも希望の無さも、全てご存じです。一旦、全てが終わる。しかし主は、その先を見ておられます。弟子たち自身全く思いもせず想像もできない将来の先取りです。復活したご自身の命と霊によって、新しく生まれる弟子たちの存在と使命を、イエス様は言わば一方的に勝手に、約束しておられるのです。
 そのために、ご自分は神に捨てられ、呪われた者として死んで行く。誰一人理解しない中、イエスお一人が一方的に約束します。それは「私が流す血による新しい契約」だと。この契約は一方的なので、弟子たちの信仰がどうかなど関係ない。彼らは主のことも、自分のしていることも分かりません。ただイエスお一人が、死に向かって行くのです。
 弟子たちは今、何も知らずに不安と絶望の中に残されます。彼らはどうしたよいのか?もうどうにもなりません。彼らは主を裏切り、主を見捨てて逃げます。「望みを持って生きろ」と言われたとしても、どこにも望みを見出せない、終わった人間なのです。
 しかし、そんな弟子たちに、イエス様は約束をお与えになります。「あなたがたは」皆私につまずく。「しかし、私は…」。ここで主は、愛する弟子たちをどん底に落としています。「自分の信仰」とか自分のナントカでなんとか立とうとする彼らを蹴落とす。あなたがたは皆、私につまずくのだ! しかし、私は、そんなあなた方を私の血によって、贖い取り、取り戻す。そして復活した私は、あなた方を新しく生かす!
 イエス様は、「契約の血」は「新しい契約」と言われました(ルカ22:20)。かつてイスラエルに与えられた契約とは違い、契約に入れられた者が真実であるかどうかは関係ありません。むしろ、不真実で不信仰で、主に対して不服従の極みまで行った弟子たちに与えられた、恵の契約、恵みの約束です。ただ主の側の一方的な真実によってのみ保持され、実現され、成就される契約です。
 この方に贖われて神のものとされた私たちも、罪を犯し希望を無くし、途方に暮れる時でも、いつでも何度でも、ただ恵みによって、復活した者のように立ち上がります。だから、絶望は希望への扉だと、終わりは新たな始まりだと言えます。私たち自身の内に力があるからではありません。私たちの内に希望があるからではありません。ただ、私たちの主が、死を破って今生きておられるからです。