霊が結ぶ実
説教要旨(10月12日 夕礼拝)
ガラテヤの信徒への手紙 5:13-26
牧師 藤盛勇紀

パウロは基本的な事実を確認します。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」。今日も礼拝の前半で「赦しの御言葉」を聞きました。ローマ8章の冒頭の言葉です。私たちは「罪と死の法則」の中にあったのに、キリストに結ばれて「命の霊の法則」に移されました。それで何が起こったのかと言うと、私たちの《生まれ》が変更されたのです。キリストに結ばれた私たちは、霊から生まれた者とされました。肉によって生まれた肉の子としてはすでに死に、霊から生まれた霊の子、神の子。生まれが変わったのです。
アダム以来の人間の系譜は、「罪と死の法則」にあります。しかし死から蘇られたキリストはその法則にはなく、パウロは「第二の人」と言いました(1コリント15:47)。この方に結ばれた私たちも「第二の人」。霊から生まれた者ですから、神の前ではすでに義人です。
ただ、私たちの体と魂に焼き付けられた古い生き方、考え方のパターンがあります(聖書のいう「肉」)。それが神の恵みを拒否させ、自分の力や自分の何かによって生きようとさせます。そうした葛藤が私たちの内にある。だからパウロは、「この自由を、肉に罪を犯させる機会」とするなと言うのです。そして、肉に従うのではなく、霊に従って歩もうと。しかし、「それは分かる。でもそれが難しいんだ」と思うでしょう。パウロも、「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と言っていると。
確かに私の内の罪ゆえの葛藤があります。しかし、ここでパウロが言っていることは、そうした葛藤のことではありません。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する」「肉と霊とが対立し合っている」。問題はその次です。なので「あなたがたは、自分のしたいと思うことができない」と訳されていますが、これでは、私たち自身の内の葛藤のことになってしまいます。私の内で霊と肉が対立していて、私は自分のしたいと思うことができない。だから私は肉の業を行ってしまう。これではいけない。何とか肉に勝たなければ」と思うのです。それは違います。
霊と肉が対立しているのは事実です。しかしパウロは、「だから何とかして、肉の思いに打ち勝ち、『霊の実』を結びなさい」などと言っているのではありません。私たちに求められていることは、私たちの内に注がれている霊の導きに従って歩むこと、霊に乗って生きることです。霊と肉の葛藤を解決することは、私たち自身がすることではありません。
ここを多くの人が勘違いして、頑張ってしまうのです。頑張ったって肉には勝てません。それで、いつまでも「ああ、私はまだダメだ。私はまだまだ主に従い切れていない者だ」などと沈むのです。そんなことは必要ありません。改めて言いますが、事実として霊と肉の葛藤があります。しかし、それを解決したり乗り越えたりするのは、私たちがする業ではなく、「霊」の働きだと言うのです。主がなさるんです。「自分のしたいと思うことができない」とは、「自分の(肉が)したいと思うことができないようになる」です。霊の思いに反して、私たちの古い自分である「肉」が「ああしたい。これをしたい」と欲します。肉はそれをしてしまいます。しかし、「霊」がそれをできないようにさせる、というのです。そうなさる霊と肉の対立が言われているのです。
だから、「霊の実」も私たち自身がもたらすのではありません。この「実」は単数です。霊の実をもたらす源は主だからです。主ご自身が私たちに実をもたらしてくださいます。実りは、ただ一人の主から流れてくるもの、恵みによって、主の体の枝である私たち一人一人にもたらされます。だからイエス様は、「私につながっていなさい」と、それだけを求めたのです。「私につながっていなければ、実を結ぶことができない」「私を離れては、何もできない」と。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15章)。これは主の約束です。そして私たちは、命の霊となられた主がもたらしてくださる実りを刈り取り、その恵みの広さ、深さ、高さ、大きさを味わって生きるのです。