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仕えるために来た主

説教要旨(11月23日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 20:17-28
牧師 藤盛勇紀

 イエス様がエルサレムへ向かう時、十二弟子を近くに呼び寄せ、改めてご自分が受ける苦難について予告をなさいます。3度目ですが、これまでで最も詳しく非常に具体的です。
 こんな時、ゼベダイの息子たちヤコブとヨハネとその母が、自分たちがイエス様と血縁にあるのを良いことに、他の弟子たちを出し抜こうとします。彼らは、預言者たちが語っているメシアの真の姿を捉えていません。世に遣わされたメシアは、その王国を建てる前に、想像を絶する苦難を受けて殺される。しかもそのメシアの姿は、見る影も無い惨めな姿。それが分からなかったのは、無理もありません。預言者イザヤでさえ、苦難の僕の章で、「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」(53:1)と言っているのですから。
 他の弟子たちは彼らに気づいて、この二人の兄弟のことで腹を立てます。揃いもそろってダメな弟子たち。それでも主は、ただ呆れているわけには行きません。やがてイエス様がこの地上を離れた後、彼らが主に代わって、信じる人々の群れを導くことになるからです。
 イエス様は言われます。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。支配者は人の上に立って権威を振るいます。国でも小さな社会でもそうです。人はできれば上に立ちたい。人の言いなりになるよりは人を動かしたい。大きな仕事をする偉い人になりたい。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と主は言われます。弟子たちは分かりません。「えっ、なんで?」。勝利を得て支配するためなら、主と共に戦う!でも、なぜ「皆に仕える者」や「皆の僕」にならなければいけないのか?
 イエス様は、自分は「仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われます。主が言われるのは、仕える人こそ必要で尊いとか、いわゆるサーバント・リーダーシップこそが指導者の資質だとか、そんなことではありません。「『仕えること』にある秘義」と言ったらよいでしょうか。誰でも、何らかの仕方で仕えることがあり、教会にも様々な奉仕があります。皆で奉仕する交わりが楽しいという経験もあります。しかし、真に仕えるということは、実は本当に孤独なことでもあります。
 これはある牧師の昔の経験ですが、一人では無理な奉仕を一人でやりました。後で「私一人でやった」と言ってやろうと思います。誰もいないし誰も見ていない。もし自分が言わなければ誰にも知られない。大げさに言えば、自分もその働きも無かったことにされる。考えてみれば、孤独で怖い経験です。そういうことは家庭にもあります。むしろ家庭のことは他人に知られなかったりします。
 でもその牧師は、不思議なことに気づかされるのです。その一人捨てられるような経験が「甘い」と。誰にも知られず完全孤独の内に重荷を負うのは、誰だって御免です。なのに、なぜかその経験が何とも言えず甘かった…イエス様とつながっている…。イエスは苦難の僕。もちろん自分なんかと比べられない。でも、誰にも知られずに仕える所で、誰よりも親しく近く、イエスの息づかいを実際に感じたというのです。あぁ主よ、息を合わせてくださっているんですか?喜んでおられるんですか?なんだかよく分からないけど、あなたは私に歩調を合わせて、息までかけておられる。これが主の霊のタッチなのか…。
 イエス様はただ捨てられただけの方ではありません。多くの人をご自分のものとなさっています。イザヤも言います。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、…彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける…。」(53:11-12)。御子イエスは罪人の一人に数えられ、私の罪も負って死なれた。そして、私もイエスの取り分、主の戦利品とされた。それを主が喜んでおられる。このことを知って実感することは、他の何事も勝って甘いのです。イエスと結ばれることでしか知られない、何とも言いがたい嬉しさ、密かで甘く、大きな喜びなのです。