めん鳥の羽の下に
説教要旨(5月10日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 23:37-39
牧師 藤盛勇紀
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」。主の嘆き、うめきです。この後、主は世の終わりを語り、その備えを促します。一方、エルサレムの指導者たちは、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談します。
すでにイエス様は、時が来たことを悟っています。32節で言われました。「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」。指導者たちは神のメシアを亡き者にするのです。ただ、実は彼らは主の真の敵ではなく、使い捨ての実行犯に過ぎません。神とメシアに反逆する真の黒幕は「蛇」です。この蛇・サタンが人を罪に誘い、神に離反させました。ところが、罪に墜ちた人間を神は愛し、救おうとされる。蛇はそのご計画を阻止しようとします。しかしイエス様は、メシアとしてなすべきことを今果たそうとしています。宗教指導者たちは何も分かっていませんが、罪人を救う神の愛と計画に、悪魔が最後の戦いを挑んでいるのです。
神の計画は不思議です。神に反逆する人間を地獄に落とすどころか、御自分の命を与えてしまう。しかも、単に「罪には目をつぶって、生かしてやろう」などという温情ではありません。神に離反し、神を無き者とする人間の罪を赦し、しかも神の子にしてしまう。さらに、人間の罪に対する神の怒りも裁きも、人となった神の子の上に下し、十字架で犠牲にする。それが神のご計画です。悪魔にすれば、「あんな人間を!」。あってはならないことを神はなさり、実現してしまいます。
この途方もない神の愛を、世にもたらすべく、イエス様は今その業を成し遂げようとしておられます。ただ、その恵みを受けるべき人間が誰一人、それを知りません。イエス様が愛し抜かれた弟子たちでさえ皆、最後にイエス様を裏切るのです。
「エルサレム、エルサレム、・・・」。この嘆きは、人を愛し抜く神の愛のうめきです。人間は神の愛も御心も知らず、むしろ神を捨てる。神の御子の嘆きは真の嘆き。これほどの深い嘆きは人間にはありません。神のような愛が人間にはないからです。本当に嘆くのは、本当に愛する者だけです。
イエス様は神を「父」と呼びました。その父の愛を現すイエス様は、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」と言われます。神は単なる父ではなく、雛をその羽の下に集めて守る「めん鳥」。父なる神の愛は父性の極みであり、また母性の極みです。人間の父性も母性も超えています。
神はイスラエルの歴史を、その愛をもって導き続けてきました。何度も繰り返し神に背くイスラエルを、厳しい裁きをもって正し、忍耐と憐れみをもってその罪を赦しては、道を指し示し、見捨てることなく守り抜いて来られたのです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」。
神はどこまでも愛と憐れみと示し続け、人間はどこまでも背き続け、神を捨てて殺す。これほどひっくり返ったことがあるでしょうか。これが聖書の言う「罪」です。しかし人間は、自分では気づきません。
イエス様は、私たちが受けるべき真の死の裁きをすでに負ってしまわれました。あの十字架で、私たちの罪の処置は完了したのです。そして今、悪魔もうらやむような、あり得ない愛をもって、イエス様は私たちをその愛と恵みの下に招いておられます。
主は言われました。「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで…」。イエス様がエルサレムに入るときに群衆が叫んだ言葉、メシアを喜んで迎える言葉です。救い主メシアは、ご自分の肉を裂いて血を流して、命を注ぎ出し、私たちへの愛を貫かれました。そして、私たちに対する祝福を保ち続けておられます。
このお方とその愛と祝福を知った人は、自分も祝福をもって応えます。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」。この幸いな交わりを、私たちも身をもって現す者とされています。だかこそ、今日も罪に汚れたこの体を引きずって、主の愛と祝福の交わりの礼拝の時に身を置いているのでしょう。