私はあなたの救いを見た
説教要旨(12月28日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 2:22-38
牧師 星野江理香
与えられた箇所は、この福音書でのご降誕の出来事の話がひと通り終わった後の物語です。話の舞台がエルサレム神殿なのは、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と定められた律法に従って、マリアとヨセフの夫婦が長男で初めての子である主イエスを神殿に連れて来たからでした。
また律法の他の規定では、出産後の女性は子羊を献げて燔祭の犠牲とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物とすることが定められていましたが、子羊を買えない場合、それを「二羽の山鳩または二羽の家鳩」で代用することも許されていました(レビ12:6)。24節に「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」とあるのは、主イエスを養育した家庭が、どのくらい貧しかったかが示されているのです。また、これらのことが詳細に語られているのは、主イエスが律法の下にあった当時のごく一般的なイスラエルの民の家庭でお育ちになったということを示しています。ちなみに、律法に従えば、生まれた子どものためにも身代わりの犠牲の動物と銀貨5シュケルが必要でした。
そんな夫婦が神殿の境内に入った時に出会ったのは、祭司でも高位の人物でもないけれど「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたシメオンという高齢の男性でした。
シメオンは、この貧しい夫婦の嬰児が自分が待っていたメシアであることに気づきます。そして、嬰児の主イエスを抱くと「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言い、また「これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光」であるとも歌って神様を讃美します。もっともシメオンは、その紹介文にあるように個人の救いはもちろん祖国イスラエルのため、イスラエルの民全てが救われることを願い祈っていた人物です。ですが、嬰児の主イエスを知った時、この救い主は、イスラエルだけではなく「万民のため」の救い主であると悟ってその祈りが拡げられているのです。
一方、この箇所の文中には一言も、シメオンに嬰児の主イエスを「救い主である」と紹介する言葉はありません。誰も、この貧しい夫婦の赤ちゃんが待望の救い主であることをシメオンに教えてはいないのです。けれども、この人の上には聖霊が与えられていて、この人を導き、嬰児が救い主であることを知らせたのです。
おそらくそれは、イスラエルの人々から卑しいものと蔑まれていた羊飼いたちが、救い主のご降誕の最初の目撃者として召されたのと同じように、この高齢の信仰者も「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて」(26節)て、救い主がほんとうにこの世に来られたことのための証人として召されていたからです。それだけではありません。待望の救い主が確かに律法のもとにある一般的なイスラエルの民の子として生まれ、それゆえに律法の定めに従って宮参りをしたこと。またその家庭も支配する側ではなく支配される側であり、多くの貧しい民の一人として生まれお育ちになられたことの証人ともされたのです。だからこそ、この御方が全ての者の友となり、全ての人間の罪の贖いとなられる、神様の救いのご計画のために備えられた御方であることを確信し、その証人としてシメオンは、この高齢の信仰者は召されていたのに違いありません。
そして、そんな救い主が与えられたことを、高齢者のシメオンは喜びに打ち震えつつ、歌い上げました。自分のためだけではなく全てのイスラエルの民のために真剣に祈り続けてきたシメオンだからこそ、神様はその長年の思いを遥かに超えた豊かな恵みをこの人に与えられたのでしょう。
そして私たちは既にこの救いを知っています。救いの恵みに与っています。自分だけが良い思いをして終わるのではなく、新しい命に生かされたところから、万民の救いのための真剣な祈りの闘いが始まるのです。そんな祈りの闘いを続けた信仰者の姿が、今日このシメオンを通して私たちに示されているのです。信仰者に余生はありません。全ての人が救われる希望を捨てずに願い求めてゆく、そんな祈りの闘いを続けていくのが私たちキリスト者の終生の務めだからです。