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父は良い物を

説教要旨(11月30日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 7:7-12
牧師 小宮一文

 イエスさまは「天の父は、良い物を用意してくださっている。だからそれを求めなさい。探しなさい。門を叩きなさい」と言われます。そうすれば見つかるのだと。イエスさまはいろんなところで偽善を批判しました。そのことは「求めなさい」ということと関わっているように思います。自分のしたいこと、自分の願いに向き合おうとしないで、「わたしはあなたのために人生をこんなに犠牲にした」というのは偽善です。偽善や自己欺瞞はどうしていけないのか。自分をあざむいて、神の前に自分を隠す人生になるからです。それは自分と人を損ないます。
 「わたしはあなたのために自分の人生をこんなに犠牲にした。ほんとうはやりたいことがあったのに」。言われたほうは罪悪感で支配されます。それはつらいので人はそのことを愛情だと受け止めます。本人は「わたしはわたしの人生を生きることができなかった」と不満と後悔を持ちます。それは死ぬときに決定的になります。「わたしはわたしの人生を生きることができなかった。わたしはあなたのためにやりたいことができなかった」。自分の人生を生きなかったことを人のせいにする。だれも幸せになりません。
 イエスさまは「あなたのほんとうの願いにあなた自身が向き合いなさい。そしてそれを求めなさい。神さまの前に立つほんとうのあなた自身を得なさい」と言っているように思います。
 けっこう前、新聞のコラムで「努力は夢中に勝てへんてよう言われますね」と馴染みの理容室の店主が言っていたという話が紹介されていました。努力は夢中に勝てない。夢中な人は好きなことに夢中になっているので人とくらべることもない。だから無敵なのだと。どんなに遅くて不器用で不格好でも、何かに夢中になっている人というのは無敵だし素敵です。「不格好だ、こんなものに意味はない」と外から破壊されないかぎり。
 クレッグ・バーンズという牧師が「知的にハンディキャップを持った子どもたちに惹かれる」と言いました。知的なハンデを持った人たちは自分の求めていることに嘘をつかないから。家族や世話をする人たちにはその人たちにしか分からない大変さがあると思います。本人もいろんなことに葛藤すると思います。でも自分に嘘をつきません。「自分はこれがやりたいんです。ここに行きたいんです」と素直に願います。夢中になることができます。「あなたのためにやりたいことができなかった」なんて言いません。神さまの前に願いを素直に差し出します。惹かれるのはそこに捨てきれないあこがれを感じるからではないか、とその牧師は言います。
 相模原市で多くの障害者が殺される事件がありました。どうしてこの犯人は自分の好きなもの、夢中になれるものを探そうとしなかったのでしょうか。私は自分が人を裁いていると思うとき、自分はこの犯人と同じだと思います。
 なぜ裁くのか。簡単です。暇だからです。暇でやることがないから人のことが目について人を裁くんです。何かに熱中している人、夢中になっている人は人を裁きません。好きなものに熱中し、夢中になっているからです。裁く人は暇です。ほかにやることがありません。自分自身の人生を生きていません。そういう人は夢中になっている人の存在が許せません。夢中な人が自分自身の願いから逃げずに向き合い、心から求めて生きているその姿に耐えられない。
 「求めなさい」という呼び声がします。「探しなさい。あなたの好きなものを探せ。それはかならずある。裁くな。裁く暇のある自分自身を殺せ。門を叩いて求めなさい。かならず開かれる」とイエスさまが言っているような気がします。不思議なことですが、夢中になっているとき、人は人を絶対に裁きません。自分のことも裁きません。イエスさまがそこへ招く言葉だと思います。「求めなさい、そして生きなさい」。
 神さまと裸で取っ組み合いをしたなら、そこに後悔や不満はありません。自分をあざむくこともありません。望んでいたものが与えられなくても、たしかな手ごたえをもって、次の取っ組み合いの旅へと向かっていくことができます。