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神の子たちの自由
説教要旨(8月17日 朝礼拝)
マタイによる福音書 17:22-27
牧師 藤盛勇紀

 イエス様の2度目の受難予告ですが、弟子たちは、メシアが殺されるなどということは絶対にあり得ないとの思いから離れられません。なぜ主はこんなことを言われるのか。疑問や不安が募る中での、神殿税の話です。
 カファルナウムにはペトロの家があり、イエス様の活動の拠点でした。神殿税を集める町の世話役たちがペトロに、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と尋ねます。神殿税は出エジプト記30章に起源が記されています。一人頭「銀半シェケル」を「あなたたちの命を贖うもの」として献げられます。「神殿税」と訳されている言葉は「2ドラクメ」です。ドラクメはデナリオンと同じ1日分の賃金に相当します。その2倍が神殿税で、ペトロの家にも世話役が来て、イエス先生は神殿税を納めないのかと問うのです。イエスは律法から自由に振る舞っていて、安息日で禁じられていることもするし、ファリサイ派と対立している。だから神殿税も納めないのではないか、と思われていたのでしょう。
 イエス様は口伝律法を否定しましたが、聖書に記されたモーセ律法を破ったことはありません。だからペトロもすぐに、「納めます」と答えます。ペトロが家に入ると、イエス様はそのやり取りを聞いておられたのか、こう言われます。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。これは一般的、常識的な話なので、ペトロは「ほかの人々からです」と答えます。主も「子供たちは納めなくてもよいわけだ」と言われます。
 これは世の王や子たちの話ではありません。ペトロはイエス様を「メシア、生ける神の子」と告白しました(16:15)。イエス様は神殿で礼拝される万軍の主、全能の父なる神の子です。神殿税を納める必要はありません。「納めなくてはよい」は、「自由だ」という言葉で、主は「子供たちは」自由だと言わたのです。真の神の子はイエスお一人ですが、主は「ペトロよ、あなたたちも一緒だ」と言われたのでしょう。であれば、神殿税など納めなくてもよいと主張することもできます。しかし主は、「彼らをつまずかせないようにしよう」と言われます。真理を示し、正しいことを語ることは必要ですが、その時、そこにいる人が疑いを持ったり不安になったり、腹を立てて怒ったりしたら、真理も正しさも吹き飛んでしまいます。パウロも言う通り、キリスト者はあらゆることから自由です。しかし、あなたの自由によって、信仰の弱い人が「こんなことをして本当に対丈夫だろうか」と恐れたり、迷いの中に落ちてしうなら、そこでは自由に振る舞うことを控えよと言っています。真に自由にされた者は、その自由をもって神と共に歩み、まだその恵みを知らない人々に証します。自分は自由だと言っても、まだ自由を知らない人を嘲ったり、思い上がったりしたら、それは本当に自由だとは言えません。
 イエス様とペトロも、ここで人々を躓かせるのは、まだ早いのです。御子が私たちのために十字架で死んだ出来事、「十字架の言葉」こそ「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」とパウロは言いました。躓きであるキリストの十字架を信じることが、その人に真の命を与え、罪と死の支配から解放し自由にします。人が躓くのは、十字架のキリストに躓くのです。そして、十字架で死んで復活されたイエスを信じることだけが躓きを克服します。だから今は無駄な躓きを与えないようにしよう、と言われるのです。
 イエス様はペトロに、釣りに行けと言われます。最初に釣れた魚の口に銀貨が1枚あるから、「わたしとあなたの分として納めなさい」と。ペトロが釣りをする姿を想像すると非常にユーモラスです。しかもこのことは、イエス様とペトロの二人だけのやり取りで、神とその子らについての、特別な個別授業のような話です。父なる神との親しい交わりを思わせます。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6:6)。主との親密な交わりの中で教えられたことを、ペトロは「あれは本当に愉快な釣りだった」と仲間に語ったはずです。私たちにも、主は親しくユーモラスな経験を通して、イエス様の死による自由を教えてくださるでしょう。