神のものは神に
説教要旨(3月8日 主日礼拝より)
マタイによる福音書 22:15-22
牧師 藤盛勇紀
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。この言葉は有名です。とくに「国家と宗教」「政治と信仰」の問題が論じられる所でよく引用されます。「神のものは神に」の方は、キリスト者にとっては当然のことのように思われているでしょう。万物は神のものだからです。むしろ、「皇帝のものは皇帝に」とはどういうことだろかと考えることが多いでしょう。
今日の世界は「新しい帝国主義の時代」と言われる混沌とした時代です。しかしキリスト教の歴史は、初めから政治権力によって翻弄されてきた歴史です。イエスご自身、ローマの権力によって十字架刑が執行されました。それは、ローマの支配に喘いでいたユダヤの人々によってもたらされた死でもありました。イエス様は、宗教的にも政治的にも抹殺されたのです。しかも、ユダヤの宗教指導者たちが、裏でローマの権力と結びついていた。そんな深い闇の中でのことでした。
そんな事態の中での、「皇帝のものは皇帝に」とのみ言葉です。ユダヤ人にとって、ローマ帝国による支配は、政治的にも宗教的にも耐え難いものでした。ローマの貨幣には皇帝の顔と名前が刻まれていて、「神の子・皇帝」といった言葉もあったのです。もちろん、「いかなる像も造ってはならない」との戒めに忠実なユダヤ人は、人間の像を貨幣に刻むなどということはあり得ません。しかし、その貨幣を使わなければならない。耐え難い屈辱です。しかし、いずれこの地にメシアが来られる時、ローマ皇帝による支配も完全に破られ、メシアが支配する神の国が打ち立てられる。
そして、まさにそのメシアではないかと多くの民衆が期待していたイエス様が、エルサレムの都に来て、宗教指導者たちとの問答が始まっています。もちろんイエス様は、間もなく指導者たちに捕らえられ、ローマの権力に引き渡され、十字架につけられることをご存じです。しかし、イエス様が皇帝について語られたのはここだけなのです。だからイエス様の言葉に、政治的な立場や政治との関わり方の原則を見出そうとするのは無理です。私たちは「皇帝のものは皇帝に」という言葉の方に引っ張られがちですが、イエス様が言われたことの中心は「神のものは神に」です。
イエス様が言われる「神のもの」とは何でしょうか。天と地とそこに満ちるものは全て神が造られたもの、神の恵みのご支配もとにあります。その神を皇帝の像のように表すことはできません。しかし、神を表すものがあるのです。それは私たちです。
神は言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。そして彼らを祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。
私たちは神の「かたち」です。ローマの銀貨を見れば支配者が分かるように、私たちを見れば、万物を造られたもの、世界を支配しておられる神が分かる。私たちはそのような存在として造られました。そんな「神のかたち」である自分を「神に返す」。神に献げるのです。神のものとして生きることです。「主よ、私はあなたのものです」と生きる。私たちを造られた神は、献げられたものを喜んで生かし用いてくださいます。そこに神が生きておられることが表されます。それが、神のものとしての私たち真実であり真理です。
イエス様は「だれをもはばからない」方、「人々を分け隔てなさらない」方。私たちも、神のものとして生きたなら、誰にはばかることなく自由に生きます。「人々を分け隔てしない」とは、「人の顔を覗かない」です。人の顔色を伺うは、人に支配されているからです。しかし、神のものとして生きる人は、そんな支配から解き放たれます。
神が人を造られたのは、神が造られた世界を支配するためです。世の権力者のようにではなく、愛と恵みによって創造された神の、愛と恵みが行き渡り、染み渡って行くように、神の御心を尋ねながら、神と親しく交わりながら、自分に与えられたものを生かして行くのです。イエス様は、私たちを神のものとして取り戻すために人となり、御自分の命をもって贖い取ってくださいました。このお方に結ばれた人は皆、神のもの、神の子です。