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みずみずしい信仰

説教要旨(1月18日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 21:18-22
牧師 藤盛勇紀

 イエス様は、エルサレムに戻る途中で空腹を覚え、道端のいちじくの木に近寄られます。ところが、いちじくの木は葉ばかり茂って実が無い。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、木はたちまち枯れてしまった。この時、いちじくは実をつける季節ではありません。しかしイエス様は、昨日の神殿での出来事と、これからご自身がなさる業について、弟子たちに教えようとしておられるのです。
 葉ばかりで実が無いいちじくの木は、エルサレムとその神殿、そこに集う人々の信仰を象徴しています。見かけは立派で、集う人々は信心深く、宗教指導者たちはうやうやしく振る舞って礼拝をしている。しかし実態は、全く形骸化して命を失った信仰と、形ばかりの礼拝。そんなことをいくら続けても、そこに命はない。それはすでに死んでいるのです。
 神殿は、神がそこに親しく臨むと約束され、人が主に近づいて交わりをいただく場です。前日、商人らを蹴散らしたイエス様が、体の不自由な人々をいやされたように、神の憐れみが示される場です。ところが、当時の神殿は、神の愛と憐れみとはほど遠く、人間の欲望が渦巻くおぞましい場になっていました。すでに命を失っているのに、外見だけは立派で形ばかり、見た目ばかり。葉ばかりのいちじくは、私たち自身への問いでもあります。
 イエス様はそんなエルサレムに人々を残して出て行かれました。それが昨日の出来事です。ところが、イエス様はそんなエルサレムに帰ったのです。なぜでしょうか?
 主は、エルサレムに象徴される人間の内面の死・霊的な死を、そのままにしておかれないのです。命を失って抜け殻だけで生きているようなエルサレムを、いや、この世を愛しておられます。死んだままにはしておかない!新しく命の息吹、命の霊を吹き込む!そして、生きておられる神と共に生きる「新しい人」を創造する。人となられた神イエスは、そのために、この世に来られたのです。
 枯れたいちじくを見て驚く弟子たちに、主は言われました。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」。
 イエス様の一言で、いちじくはたちまち枯れてしましました。ところが主は、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」、遙かに大きなことをするのだ、と言われるのです。
 念のために言えば、「信仰」とは、私たちが思った通りに何かを動かすような、超能力を持つということではありません。主は、「信仰を持ち、疑わない」ことを「信じて祈るならば」と言い換えています。「信じている」とは「祈っている」こと、いつまり生ける神と親く交わりをいただいて生きていることです。だから、信仰を持つと言っても、モノを所有するように持つわけでありません。モノは死んでいます。しかし「信仰」は、神の命に生きている生そのものです。
 主が「今後、二度と実がならないように」と言われると、今ここで枯れてしまったたように、信じることは、既に得たのと同じなのです。「いつか、こうなれ」「そうなればよい」は、信仰ではなく単なる願望です。マルコ福音書では、主はこう言われました。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。まさに「信仰とは、望んでいる事柄の実質」で、「見えないものを確証するもの」です(ヘブライ11:1)。
 信じたら得た。それが私の現実になっている。主がいちじくになさったことは、そのことの否定面です。それがエルサレム神殿を中心としたユダヤ教の実態、実質でした。それに対してイエス様は、父なる神との交わりにある信仰を、デモンストレーションのように弟子たちに示されたのです。そして、「あなたがたもそうなんだよ」と。
 やがて弟子たちは、イエス様がなさったことよりも大きな業を実際にこの地上で現します。そのために今、イエス様はエルサレムに帰るのです。ここで、ご自身の命によって、死んで滅びる者たちを取り戻すためです。この方を信じた人は、主のものとされ、主と一体とされます。その人には命の霊が注がれています。信仰は今!なのです。