思い直す信仰
説教要旨(2月8日 主日礼拝より)
マタイによる福音書 21:28-32
牧師 藤盛勇紀
「二人の息子」のたとえ話は、非常に短く内容も極めて単純です。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりしたか」。子供でも答えられます。しかし、このたとえの聞き手は、直前から引き続き宗教指導者たち。しかもユダヤ教のトップ、エルサレムの権威者です。この人々が、ここでも問われています。
人間は皆、問いながら生きています。そして、問う人は自分が中心にあります。「自分にとって」どんな意味があるか、「自分には」何が役に立つか、それは「自分に」何をもたらすのか……。聖書を読む時もそうなっていないでしょうか。「自分が」何か教訓を得るため、「自分の」人生をより豊かにするため、「自分の」仕事や商売を上手く進めるためのヒントを掴むため……。聖書をどう読もうと人の勝手ですが、なぜ人は問うのでしょうか? 幸せになるためでしょう。ただ、それが意味ある問いになるには、人間とは何かを知っているか、自分に本当に必要なことは何かが分かっていなければならないでしょう。
しかし、「人間とは何か」「私とは何か、誰か」が分かっている人はいません。呆れるほどに分かっていません。人生の多くの時間を費やし力を注ぎ、人生を賭けた末に、自分で掴んだものに愕然とする。そんな人生がゴロゴロしています。
イエス様がこのたとえ話で問うておられることは単純です。「二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。言葉の表面だけを切り取って「父親の望みどおりなんて、主体性のない生き方ではないか」と思う人は、上っ面を滑っています。イエス様の「たとえ」は中心が一つ。その中心に触れ、触れられることが命です。もちろんこの話は神と人のことです。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。
イエス様が求めておられることは単純です。信じることです。「信じる」ってどういうことですか? 生きて語っておられる神の言葉に触れられ、世に乗り込んで来た神の働きに触れられ、応答していることです。
しかし、人はいつでも問う者、自分中心で、行き先も知らずに突っ走っている的を外した弓矢。主は、そんな「飼う者のいない羊」のような民衆を深く憐れみました。惨めな人間を決して放って置かない神の憐れみが来ています。「信じる」のは、その方に触れられたからです。だから主の周りには、徴税人や売春婦たち罪人が集まったのです。偉そうな宗教者や学者のもとなどには来ません。
あの「放蕩息子のたとえ」を思い起こします(ルカ15章)。弟が父親に、「自分がもらうべき財産を、今分けてくれ」と言い、外国に行って好き勝手に生きます。全財産を使い果たし、食べる物にも困って、豚の餌で腹を満たしたいと思っても、食べ物をくれる人もいない。そこで、彼は「我に返った」と。自分が父のもとにいた時、どれほど愛されていたか。父の家にいた時は、愛だの何だのは自分の役に立たない、そんなものは自分の問いには答えないと思っていた。「我に返る」とは、「自分は問われている、求められている」と気づくことです。確かな父の愛、神の愛があった。それが無い所で自分がどれほど問うても、何をどれほど獲得しても、空しい。
植村正久牧師が伝道集会に招かれた時のエピソードを思い起こしました。大勢が集まった集会の後、ある金持ちが植村牧師を食事に招きます。豪勢な食事をいただいて、その金持ちに言ったそうです。「あなたは豚だ」と。豊かな食事を食べて満足している、それでは豚と同じだということでしょう。そしてあの言葉を引用しました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。私たちを造り存在させた神の生きた言葉によって、私たちは生きるのではないか。その金持ちは「問われた」。本当にそうだ、と我に返って、改めてみ言葉に触れ、礼拝で神と交わり、キリスト者になりました。
今日のたとえの兄も、あの放蕩息子も、徴税人や娼婦たちも、神の憐れみに触れられて、我に返って、思い直しました。神の憐れみと愛の内に帰ったのです。