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主よ、指一本なら貸せます

説教要旨(4月12日 主日礼拝より)
マタイによる福音書 23:1-12
牧師 藤盛勇紀

 イエス様は律法学者とファリサイ派の人々を非常に厳しく非難します。彼らは、ユダヤ人に聖書の言葉を教え、生活に適用することも教える指導者、教師、父です。中でもファリサイ派は優等生で模範生。しかし主は、「あなたがたは、…であってはならない」と警告します。そこでの主の言葉は有名ですね。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」「地上の者を『父』と呼んではならない」「『教師』と呼ばれてもいけない」。この字面だけ切り取って、「人から『先生』と呼ばれたり、誰かを『先生』と呼んではいけない」と言う人がいますが、「先生」がダメなら、「父」も「教師」もいなくなってしまいます。
 イエス様は律法学者やファリサイ派を非難しますが、彼らの教えや存在を否定してはいません。むしろ「彼らが言うことは、すべて行い、また守れ」と言います。モーセがイスラエルの民に神の言葉と意志を伝えたように、律法学者たちもそうなのです。しかし、です。「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないから」。彼らは自分が教える神の言葉を「実行していない」。彼ら自身が神の言葉によって生きていないのです。
 では、彼らがしていることは何か。「すべて、人に見せるため」。それが彼らの生活であり人生であり、生きる意味でした。そのために聖句の入った箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりします。今日でもこの小箱を手や額に結んでいるユダヤ人がいますが、神の言葉を重んじていることを示すのです。すべては「人に見せるため」。人からの評価、賞賛を得るため。それが「すべて」なのです。
 イエス様は6章で、「あなたがたは偽善者たちのようであってはならない」と教えました。その時は律法学者やファリサイ派を名指しはしませんでしたが、偽善者とは宗教指導者たちのことです。たとえば祈るとき、「彼らは既に報いを受けている」と。人からの評価や賞賛を得た。これが全て。表面的には美辞麗句、立派な言葉で長く祈る。しかし神には向いていない。まさに偽善です。だから、「あなたが祈るとき」は、一人の場で「あなたの父に祈れ」と言われるのです。偽善者の祈りは人に聞いてもらうため。しかし祈りは、「あなたの父」との交わり、神と共に生きることです。イエス様は私たちと命の交わりを持ちたいのです。「私と共に生きよ」と願っておられます。
 しかし、偽善者・宗教指導者たちは、すべてが人との関係、人の目がすべてで、神の目など眼中にありません。彼らは人々に神の言葉を守れと要求して、「背負いきれない重荷を人の肩に載せる」が、自分では「それを動かすために」、つまり神の言葉で生きるようになるために「指一本貸そうともしない」のです。それは、彼らが無慈悲だというだけでなく、彼ら自身が神の言葉によって生きることを知らない、ということです。だから彼らは、神の言葉を表面的に「守っている」「行っている」とは言えても、生ける神と共に生きていない、神との交わりがないから、「あなたの父」を知らないのです。本当にあなたを導く「あなたの先生、あなたの教師」を知らない。その人生には、明らかに「神がいない」のです。
 イエス様は、あなたの人生・あなたの命に、生きておられるあなたの神、主を迎えなさいと言っておられます。でも、私たちはすぐに人の目が大事になります。神の言葉よりも、人の言葉が大事、いや「すべて」になって、ちょっとした人の言葉にグサッときて、「もう生きられない」とか、おかしなことになります。私たちも偽善者と本質が一緒なんです。自分の生活に神が生きていない。むしろ神を追い出しているのではないですか。
 しかしイエス様は、あなたの主は、どんな時にもあなたと共に生きたい、あなたの内に生きて、あなたの命となりたいのです。だから、人と比べて何ができるとかできないとか、人を見て思い悩むのではなくて、困ったことがあるならあなたの父に打ち明けるのです。何でもいいから「アッバ、父よ」と、「主よ、私は今これに困っています」と。「私は、人に見てもらえるような大きなことはできません。でも主よ、あなたが望まれるなら、隣の人に、指一本なら、貸せるような気がします。主よ、こんな者でよければ、どうぞ私を用いてください」と。あなたが祈るなら、主はどれほど喜ばれることでしょうか。