主の名によって来られる方
説教要旨(12月14日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 21:1-11
牧師 藤盛勇紀
いよいよイエス様が、イスラエルが待ち望んでいたメシア、王の王としてエルサレムの都に入城されます。しかし、主がこの後どうなったか、多くの人が知っています。僅か数日後の十字架の死。しかも、当のイスラエルの民ユダヤ人たちから捨てられ、主が選び、愛し通されたあの弟子たちも、結局一人残らず主を裏切り、見捨て、「イエスなど知らない」と完全に拒絶します。そんなことになるとは、この日誰も思ってもいません。
大勢の群衆が道に自分の服を敷き、あるいは木の肢を手に持って振り、道に敷き、叫びます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ!」。「ダビデの子」はメシアを意味します。「ホサナ」は「どうぞ、救いを」(詩 118 編)。群衆は歓喜します。「私たちを救うメシアがついに来られた!」。この群衆の中の多くの人々が、数日後には「イエスを十字架につけろ!」と叫ぶことになります。
顛末を知っている人は思います。「今こう叫んぶユダヤ人たちは、結局、イエス様がどんなお方か理解しないまま、手のひらを返すように裏切る。『ホサナ』と叫んでいるが、その救いを、自分たちで捨ててしまう」と。確かにそうです。しかし、イエス様は全てをご存じの上でエルサレムに入って行くのです。そのことも今の私たちは知っています。しかし、それを本当に改めて思うと、私は言いようのない、あまりにも冷たいもの、冷たい暗さ、恐ろしさを思い、戦慄します。表現しいのですが、イエス様の孤独です。単なる孤独ではなく絶対的な孤独。あるいは誤解を生むかもしれませんが、イエス様の絶対的な絶望と言ってもいいかも知れません。
群衆はメシアであるイエス様をまったく理解していません。イエス様が受けておられるこの深い誤解は、その深さは他の何ものとも比べものになりません。群衆は喜び踊るように歓喜して叫びます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ!」。群衆の叫びは間違っていない、否定できないのです。確かに完全に誤解していますが、誤解の中で叫んでいる通りに、イエス様は救いをもたらすお方になります。ここに、人間には計り知ることのできない、神の決意があります。
この、イエス様の他誰も味わうことのない、絶対的な孤独・絶対的な絶望を引き受けて、主はエルサレムに入り、誰にも理解されないまま捨てられ、血祭りに上げられます。しかし、これがダビデの子メシアに実現される救いでした。主よ、お救いください!この実現は、救いを全く理解しない罪人たち、私たちに実現しました。それが神の御心だからです。
それを、ただイエスお一人だけが知って、負ってしまいます。この絶対的な孤独も、人からも神に見捨てられる絶望も、全てのものから切り離される本当の死も、私たちは知ることはありません。イエスお一人が担ってしまわれたからです(⇒イザヤ 53 章)。
だから、私たちは信じてよいのです。私たちはいつも愚かで、自分の罪の深さだって分かっている訳ではない。なのに、神に祈り求めていいんです。私たち自身の呆れるほどの身勝手さがあり、勘違いや誤解や罪を犯し続ける、にもかかわらず、私たちはなお、主よ!と祈れます。「主の名によって来られる方」「主は救い」そのものであるイエスに捕らえられたからです。主に捕らえられた者は祈れます。正しく理解しているからではありません。イエス・キリストを捕らえたからではありません。私たちもパウロが「誰が私を救ってくれるでしょうか」と叫ぶように、救いようがないのです。しかし、私たちは絶望することはありません。むしろ希望の内に大胆に前進します。なぜですか? パウロも救いようのない自分を認めたその場で感謝の叫び上げます。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします!」(ローマ 7 章)。救いようのない自分が、「救い」であるイエスに捕らえられているからです(フィリピ 3:12~)。
いまアドベント・待降節ですが、御子イエスはすでに生まれ、すでにただ一度、私たちの罪を一身に負って十字架で血を流され死なれたのです。このお方イエスは、その名の通り「主は救い」。これが私たちの主の御名です。「主よ、イエスよ」と呼んでよいのです。