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愛の掟

説教要旨(3月22日 主日礼拝より)
マタイによる福音書 22:34-40
牧師 藤盛勇紀

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。申命記6章の言葉で、旧約聖書の中の最も重要な言葉の一つです。「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19章ですが、「律法全体と預言者(聖書全体)は、この二つの掟に基づいている」と主は言われます。「基づいている」は「ぶら下がっている」という言葉。この二つの言葉に聖書全体がかかっているのです。
 イエス様を通して知らされたのは、神はどこまでも私たちを愛しておられる事実です。この愛はアガペー。見返りを求めない与え尽くす愛、真実な愛です。パウロは言いました。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…私たちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示された」(ローマ5:6~8)。ヨハネも言います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。この愛を知って、自分がどれほど愛されている者かと知ったなら、その愛に応えたい、私もこのお方を愛したい。しかしイエス様は、「あなたの神である主を愛しなさい」、そして「隣人を自分のように愛しなさい」と言われます。この二つの掟に聖書全体がかかっていると。聖書全体は神について、そして救いについて語っています。この二つの掟に私たちの救いが、救われて生きる命がかかっています。
 すると、「何と難しいことか」と思われませんか。神を愛することなら分かる、でも隣人を愛せと言われると、「はたして自分が隣人を愛することができるだろうか」と。そもそも私の内に真実な愛があるだろうか。私たちはすぐ自分の内側を探り始め、一気に愛が冷めたようにさえ思われるのです。
 実は、この二つの「愛しなさい」は、原文は命令ではなく、「愛する(だろう)」という未来形です。「あなたは愛するんだよ」。命令というより、約束であり励ましです。これは、自分が神にどれほど愛されているか、を知ったところで開かれる未来です。
 主があなたを造り、あなたに命を与え、あなたを生かします。あなたを愛しているからです。だから、あなたの命や愛を心配するのは、あなたではありません。あなたは、「自分に愛があるのだろうか」と内省し、考え込んだりするけれども、主が、あなたを愛して、命を与えておられるのです。この方の愛に触れられた所で、「あなたは愛するんだよ」と聞きながら、私たちは、自分を内省するのでなく、外に向かって開かれていくのです。
 このことは、あのペトロが身をもって経験しました。復活の主に出会ったペトロは、他の弟子たちがいる所で、主から問われます。「この人たち以上に私を愛しているか」。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロが答えると、主は同じ問いを繰り返します。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるのですが、ペトロが言う「愛」は、「あなたが好きです」という、言わばレベルの低い愛で答えています。
 つい先日、主を見捨てて逃げてしまい、「イエスなど知らない」と三度繰り返して、イエス様を完全に拒絶した。今さら胸を張って「愛しています」とは言えないでしょう。イエス様が「私を愛するか」と問われたとき、ペトロは一番痛いところを、えぐられたように感じたでしょう。イエス様が三度目に「私を愛しているか」と問われた時、ペトロは悲しくなりました。イエス様の三度目の問いは、アガペーの愛で愛する「アガパオー」ではなく、ペトロが答えた言葉「フィレオー」で問われたからです。「シモンよ、私が好きか?」と。イエス様は三度目に、ペトロのレベルに降りて来られたのです。
 イエス様に現された神の愛は、私たちに要求する愛ではありません。無理に愛を絞り出すことを求めません。あなたもアガペーの愛をもって答えよ、と命令しません。主の愛は、「お前も、私が好きだろ? 好きだよな」「だったら、お前も、愛するようになるよ」という約束を与える愛なのです。