あなたの願いどおりに
説教要旨(6月15日 CSとの合同礼拝より)
マタイによる福音書 15:21-28
牧師 藤盛勇紀

一人の女が叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。「ダビデの子」は、ユダヤ人のメシア、救い主を意味します。この人の娘が悪霊に苦しめられていて、死にそうなのでしょう。彼女は叫びながらイエス様たちについて行きます。他に頼る者もなく、力も尽き、ただ叫ぶ。この魂の叫びに、イエス様は「何もお答えにならなかった」。無視です。なぜなのか。弟子たちも戸惑います。女はいつまでも叫び続けるので、弟子たちはイエス様に言います。「この女を追い払ってください」。必死の祈りの叫びに、主は無視。おまけに弟子たちからは、「追い払ってください」と言われる。そのとき、ようやくイエス様は口を開かれました。ところがこうです。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。
説明が必要ですが、「あなたは私と関係ないだろう」です。冷たい拒絶。イスラエルは神の愛の内に選ばれた民です。しかし彼らは、まるで神から見放され、失われた羊のよう。ダビデやソロモン王の時代には栄えていたイスラエルは、とっくに滅ぼされ、エルサレム神殿を中心としたユダヤに細々と小さな民として残っているだけ。ちょうどこの女のように、神に叫んでも答えが無い。神に期待をしているが見放されている。神から離れた罪の中にたたずみ、魂も病んでいる。
イエス様が来られたのは、そんな「失われた羊」を尋ね、集め、神の民を回復するためです。ただ、イエス様のお言葉はこの女に対する答えとしては余りにも冷酷です。イスラエルだけを顧みるというのは、あんまりではないか。なぜこの小さな一人の女の叫びにも答えてくださらないのか。
しかし、ここでちょっと思います。この女は「ダビデの子よ」と叫びますが、それは彼女の信仰ではなく、知的な情報としてイエスは「ダビデの子」と知って、そう呼んだのでしょう。「ダビデの子」である救い主を待ち望んできたのはイスラエル、ユダヤ人です。この女にとっては、関係ないのです。少し意地悪な言い方をすると、この女が言っているのは、「ダビデの子よ! 知らんけど…」というニュアンスが感じられるのです。
それでも彼女は、今度はイエス様の前にひれ伏し、文字通り捨て身で言います。「主よ、どうかお助けください」。それに対する主の言葉はこうです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。「子供たち」はイスラエル。「小犬」は異邦人であるこの女。子供にあげるパンはあるが、小犬にやるパンはない。
捨て身の叫びも拒絶されました。もう限界、「力も希望も尽き果てた。神も仏もあるものか」となってもおかしくありません。この女はどうなるか。不憫な娘と共に死ぬだけか。叫びに答えてくれない神など何の意味もない、と恨んで神を呪うかも知れない。しかしこの女は、自分を拒絶するイエスに言います。「主よ、ごもっともです」。驚きです。「こんなに必死にお願いしているのに! もういいよ!」となりそうですが、彼女は主の言葉を全面的に肯定するのです。
でも、「ごもっとも」なら、諦めや恨みを抱きながら背を向けて離れるのが当然です。しかしこの女は違います。自分を拒否する主の御心を「その通り」と認めます。主は「失われた羊」のような神の民を呼び集め、命へ導かれる。そのご意志、愛と憐れみのご計画を全面的に信頼するのです。もう彼女は、イスラエルとの関係で救いを求めていません。自分は無関係の者だけれども、愛と憐れみの神に信頼するのです。見放されたようなイスラエルを主はお救いになる。その救いのご計画は知っている。だからその憐れみの深さ広さに望みをつなぎ続けるのでしょう。
ついにイエス様の言葉がありました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。「立派」とは「メガス」。あなたの信仰は何と大きく広いのか。この大きさは彼女自身の内に持っているもの大きさではなく、どこまでも主を信頼するその深さ広さです。「主はどこまでも広く大きい」。自分は小犬でも、主は計り知れず大きなお方。このお方に大胆に信頼する。それをイエス様は「あなたの信仰」と言い、「あなたの願いどおりになるように」と言われます。主ご自身の力が、彼女の信仰に現され、彼女を通して主の御心が行われ、生かされるのです。