ホーム | 説教

神なき世界の下剋上

説教要旨(2月15日 主日礼拝より)
マタイによる福音書 21:33-46
牧師 藤盛勇紀

 ぶどう園の主人は、農園をよく整備して、農夫たちに任せます。彼らは計画を立て、ぶどうの手入れをし、収穫を上げます。農園は彼らの生活そのもの、人生の舞台。収穫の時になると、主人は共に収穫を喜び祝います。
 ところが、このたとえ話の農夫たちは、主人の僕たちを次々と殺してしまいます。収穫したものを主人に渡すつもりはないのです。徹底して主人に反抗します。主人は最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と自分の息子を送りますが、農夫たちはその息子をも殺してしまいます。酷い話ですが、自分の息子を農夫たちに送って、みすみす殺させてしまった主人も酷いではないですか。
 このたとえは、神とイスラエル(人間)の話です。人間は忍耐深い神を侮り、いい気になって反逆し続ける、生々しい現実です。もちろん、主人の息子はイエスご自身です。いずれ、主人が帰って来る時、主人と収穫を分けあう時が来るのに、農夫たち、初めから主人はいないものとして生きています。主人が造り整えて、自分たちに任せてくれたからこそ、自由があり、働く喜びもあり、人生がある。なのにそれを認めず好き勝手に生きる。神無しにやっていける、と思っている人間の世界そのものです。
 この世界も私たち自身の存在も、与えられたもの。自分の体も自分でオーダーしたわけではなく、気づいたら与えられていました。地上の生涯が終わるまでの間、貸し与えられている体も、いずれお返しすることになります。しかし、実に多くの人がそんなことは考えずに生きています。人間は皆自分中心で、自分が主人だと勘違いしています。しかし神は、私たちに目的と計画を持っておられます。ご自分の期待や希望や喜びを、私たちと分かち合いたいのです。
 なのに自分の人生の主人を自分にして、真の主を拒否して、自分が主の位置にのし上がっている。大いなる倒錯の下剋上でしょう。それは、「自分勝手な人生」では済みません。なぜなら、私たちの神は私たちの人生に、主として関わって来られるからです。空車のような私たちの人生に乗り込んで来られます。
 しかし、「俺の人生は俺のもの」「私の人生の主人公はワ・タ・シ」と思っていたら、「なぜ自分の人生を神と分け合わなくてはいけないのか」と神が邪魔になり、無視します。それでも関わって来るなら、神を抹殺します。それで人は、あたかも神がおられないかのように生き、神無き世界で、神は無いものとして振る舞っています。
 それにしても、なぜ神はこんな酷い、あってはならないことを起こさせてしまうのでしょうか。それは、神が人間を信頼なさったからです。神が、人間を「信じた」。聖書の言葉で「信仰」は、実は人間の側だけのことではありません。むしろ先に、神の「信仰(信実)」があるのです。それに触れられて、私たち人間の側の「信」が引き起こされているのです。この辺りの関係は、ようやく新しい翻訳で初めて明らかにされました。
 いずれにせよ、「信じる」ことは自分を相手に任せてしまうことでもあります。そのようにして目的を共にし、喜びを一つにし、命を一つにしたい。そういう冒険なのです。「信頼・信仰」は、裏切られ、捨てられる危険があります。にもかかわらず、「その人と共に」と願い信頼し、希望をつなぐ。それが、神の信実であり愛です。だから、ぶどう園の主人は、あまりにもお人好し過ぎ、あまりにも危険なのです。そして実際、息子を送ってしまう。神の愛は、愛する独り子さえも送ってしまう。神は信実であり愛だからです。
 このたとえを語っておられる主ご自身、数日後に、人間の罪をご自分で負い、罪の醜さをその身に塗りたくられ、血祭りにあげられます。その十字架の上で主は何と言われたでしょうか。「父よ、残念ながら人間とはこんなものです。彼らは豊かな恵みを取り上げられて、地獄行きです」とは言われませんでした。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からずにいるのです」。
 私たちはこの神の信実に触れられて、失われていた途轍もない何か、私たちの内には無かった何かが生じさせられ、与えられます。私たちのために死なれたこのお方が、私たちに、来ているからです。