今週の説教
罪人を愛する神
説教要旨(7月28日 朝礼拝より)
ローマの信徒への手紙 5:6-8
牧師 藤盛勇紀
「キリストは、…不信心な者のために」「私たちがまだ罪人であったとき」、その私たちのために死んでくださった、と聖書は語ります。イエス様は、ご自分に向かってつばを吐き罵詈雑言を浴びせかけ、牙をむいて血祭りに上げようとする、そんな人間のために命を献げられました。こともあろうか《正しい人のためではなく》、信仰もへったくれもない《罪人のために》命を捨てられた。呆れた話、馬鹿げた話です。
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」。正しい人のため、価値あること、麗しいこと、気高いことのためなら、人は命を献げることがあります。しかし、「お前なんか死んでしまえ」と言う者のために自分の命を献げることなどあり得ませんし、あってはなりません。
では、イエス・キリストの死はいったい何だったのか。なぜイエス様は神を侮る者、悪しき者のために命を献げられたのか。パウロは言います、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。罪人のために命を献げる、それは人間には理解不可能なことです。しかしそれは《人間》の業ではない。それは《神の》愛であり、《神の》業だというのです。
罪人のために主が命を献げる、これは驚くべきことです。しかし、もしそれだけで終わったなら、それこそ無駄死にでしょう。私のためにキリストが死なれた。それを知らないまま、罪人のままで生き長らえる。そんなもったいない、無駄なことはありません。
パウロは言います、「キリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に」、「わたしたちがまだ罪人であったとき」と。 神は人をご自分に似せて、ご自分のかたちに造られました。ところが、全ての人は罪によって神から離れ、本来の命から堕ちてしまった。しかしそれは、人が永遠に罪人だということではないのです。
神によって選ばれたイスラエルでさえ、神に背き続けました。しかしそのイスラエルを、神は「宝の民」と言われ、ご自分の「瞳」のように守られた、と聖書は語ります。《そんな宝を、どうして見捨てられようか》と、神は怒りを表されながらも、うめくように言われるのです。《生きよ》《滅びではなく、命を得よ》《呪いのもとにではなく、祝福の内を生きよ》と。
神は永遠の目で人間を見てくださいます。だから、罪の縄目に捕らわれたままであってはならない、解き放たれて自由にされ、自由に命の主なる神と共に生きるべき者。
そのために、罪とその結果としての死を滅ぼすために、神は独り子を犠牲となさいました。神に背く者をご自分のものとするために、独り子イエスの血という価をもって、私たちを贖い取ってくださったのです。
人には皆何らかの価値があることは、誰もが思います。しかし、一体どんな価値があるのか? キリストを知らないままに自分の価値が分かるでしょうか。
この価値は、誰か他の人が私たちに教えてくれるものではありません。人間の本当の価値は、人間によって知られることはありません。人をお造りになって、人に命の霊を吹き込まれたお方だけが、そして、永遠の愛の中で、神から離れる罪人を見てくださるお方だけが、私たちの価値を知っておられるからです。
あなたのために犠牲を払ってくださった方がおられます。命を献げてくださった方、私たちの主なる神がおられます。主が、ご自身の命を、注ぎ出してしまわれたのです。この途方もない《神の無駄》の中に、私たちは自分の途方もない価値を知ります。そこでこそ、私は何のために生きるのか、何に命を献げ、何に命を用いられて生きる者なのかを知っていくのです。