門は開かれた
説教要旨(10月11日 夕礼拝より)
ヨハネの黙示録 3:7-13
牧師 藤盛勇紀
「フィラデルフィア」と聞けば、アメリカの大都市を思い起こす人が多いでしょう。17世紀末、英国人ウィリアム・ペンが設立したことでも知られています。当時の英国はピューリタン革命後の争乱期で、当時異端扱いされていたクエーカー(フレンド派)の信徒だったペンは迫害を受けました。そんな時代、新しい大陸に「フィラデルフィア(兄弟愛)」を理想とした街を建設したのです。もちろん黙示録が念頭にあったでしょう。ヨハネ黙示録は、迫害の只中にあったキリスト者たちを励ます文書だからです。黙示録を記したヨハネ自身、迫害を受けてパトモス島に流され、獄中にあったと思われます。
ヨハネは幻の中で「7つの教会に手紙を書き送れ」と主イエスから命じられます。このフィラデルフィアは6つ目の教会ですが、どの教会への手紙にも同じような言い回しの言葉がいつくか出て来ます。最も印象的な言葉は、イエスご自身の教会に対する、「わたしは、あなたの○○を知っている」という語りかけでしょう。
迫害の過酷さは私たちの想像を超えます。自分でも経験したことのない苦悩や苦痛は人に理解されることはありません。しかし、生ける主を知っている者は《主が私を知っていてくださる》ことを知っています。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」とパウロも言いました(ガラテヤ4:9)。私が神を知っている以上に、神が私を知っていてくださる。この信実が、改めてヨハネを通して語られ、慰めと約束と励ましたが語られます。
「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた」。終わりの時の救いの完成が、今すでに準備されているということでしょう。それは、「神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名」(⇒21章)という言葉から分かります。《終わりの時》の確かさが《今》の歩みを意味あるものとし希望あるものとします。ゴールが明確だからそ、今をどう走るべきかを考え、力を出すことができるのです。私たちの行く先には、主によってすでに門が開かれています。
そしてこれは、単に将来のことでなく、今と直接かかわります。「門を開いておいた」と言われるイエスは、「私が門だ」とも言われました。「私を通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10章)。イエスは父なる神への唯一の「道」であり「門」でもあります。イエスという救いの門を入った人は、入って救われるだけでなく、「門を出入り」するというのです。
私たちが生きるこの地上は、常に悩みがあり混乱があります。そんな世にあって、私たちはイエスに結ばれ、世に属する者でなく天に属する者とされ、いま世に遣わされています。イエスという門を通る者は、門を出入りし、天と地を行き来するのです。ヤコブが夢で見た階段は、神の御使いが行き来し、ヤコブは「天の門だ」と言いました(創世記28章)。主に結ばれた私たちは、この地と天とを行き来する使者なのです。
主は言われます、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」。確かに私たちは弱い者。しかし主の御言葉を「守る」(大切に保持する)者。そして「主の名」を知らないとは言わないのです。主の「名」は単なるラベルではなく、主が生きておられ、私と一つであるという事実そのもののことです。「あなたは…わたしの言葉を守った。それゆえ、…わたしもあなたを守ろう」。これを一言で言うなら、主と私は一つであり、主は私を決して放さないという信実です。この真理が弱い私たちの唯一の慰めであり力であり、励ましです。こうして私たちが主の御言葉と御名に固く留まることによって、この世は、主が私たちを愛しておられることを知るようになるのです。