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罪人を招くために来た

説教要旨(10月6日 朝礼拝)
マタイによる福音書 9:9-13
牧師 藤盛勇紀

 マタイがイエス様に召されて弟子とされた話です。注目したいのは、イエス様は彼が「座っている」のをご覧になったこと。非常に簡潔な記事ですが、わざわざ「座っていた」と記しているのは、マルコもルカも同じです。ところがイエス様から声をかけられて、彼は「立ち上がった」。これも他の福音書も記しています。座っていたのに、イエスから呼ばれたら立ち上がった。そして、全く思いもしなかった道に生かされ、生き始めたのです。
 徴税人は、同胞から露骨に眉をひそめて見られる存在です。ローマに支配されていること自体ユダヤ人には屈辱ですが、税の徴収業務はユダヤ人に委託されています。徴税人は決まった額を納めれば、あとはローマの権力を笠に取りたいだけ取り、貧しい同胞も容赦ない。こんな仕事を続けられるのは、開き直って、人生を投げていなければできません。「神の恵みだの救いだのは俺には関係ない」。そうやって座り込み、罪の中に地べた座り。
 そんなマタイを、イエスはご覧になり、無謀にも彼に声をかけます。「私に従いなさい」。「はあ?どこのおっさんだよ」と悪態をついておしまい、ではありませんでした。なぜかマタイは「立ち上がって、イエスに従った」。なぜか分かりませんが、マタイはイエス様一行を招いて宴会を開いたようです。しかもその家には「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」。人々からも神からも見捨てられたと思われていた人たちが集まって、食事をしています。大変なことになっているようですが、これはイエス様にとって珍しいことではありませんでした。
 イエス様は彼らをどう見ておられたのか。皆から色々言われる人だちだが、付き合ってみれば本当は善い人たちだとか、飲んで食べて腹を割って話をすれば仲間になれる、などということではないでしょう。そんなことで真の命に導くことなど不可能です。同情するとか理解を示すとか、打ち解けるとか、そんなことが救いにはなるわけではありません。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主は彼らを病人、罪人だと言うのです。自分で座っている所から出られない、的を外したまま生きて、落ちるだけの罪人だと。
 イエスはそんな罪の真ん中に座り込んでいる者に、「私に従って来い!」と言われた。するとマタイは立ち上がってイエスに従った。それだけです。心理描写など全くありません。ただ彼の生き方がどうなったのかだけが記されます。「彼は立ち上がってイエスに従った」。
 他の福音書には「彼は何もかも捨てて立ち上がった」とあります。そして派手な宴会を催した。マタイは今や、イエス様と罪人たちのために自分の財産を使う。こんな交わりは経験したことがなかった。イエスがおられる所に生まれる不思議な交わり。しかも誰の目を気にするでもない、これまで味わったことのない解放感。マタイ自身が驚いたでしょう。
 どうしてこんなことが起こり得たのか。理由は一つ。他でもないこのお方が彼をご覧になった、そして、お呼びになったからです。イエス様の眼差しは、普段彼らに注がれる周りの人々のそれとは違う。軽蔑する目でなく、恐がる目でもなく、上から憐れむ目でもなければ、真面目人間代表のファイサイ派の裁く目でもない。イエスの眼差しは神の眼差し。「全てを投げ捨ててでも、このお方に信頼して従って行きたい」と立ち上がらせます。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。なんと憐れみ深い言葉か。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)。
 イエス様は「お前たちのために私は罪を負う」とか「私が代わりに死ぬ」などと言われません。罪人のために、口を開かない羊のように、ただ死んでしまわれるのです。「父よ、彼らをお赦しください」と祈りながら。自分が何をしているのかも知らず、開き直っている私たち罪人を、後ろ手にかばうようにして、ただ一人、裁きを受けて死なれるのです。だからでしょう。このお方とその言葉に触れられた者は、なぜか、「立ち上がる」のです。