ホーム | 説教

主の恵みの年

説教要旨(2月9日 朝礼拝)
ルカによる福音書 4:14-21
牧師 星野江理香

 荒れ野の誘惑の後、“霊”の力に満ちて(14)、ガリラヤ伝道を開始された主イエスは、諸会堂でみことばを語られ、人々から尊敬を受けていらっしゃいましたが、その日はナザレの会堂で安息日を守られていました。そこでも主イエスの評判は届いていたのでしょう(15)、聖書を朗読し教える重要な役を会堂長に託され「イザヤ書」を朗読されました。そこには「貧しい人に福音を告げ知らせ」、「捕らわれている人に解放を」、「目の見えない人に視力の回復を告げ」、「圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」メシアが遣わされることが示されておりました。
 もっとも、この時ナザレの会堂にいた殆どの人は、この後に発生した大騒動から類推すると、これら「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」を、他人事として受けとめたように思われます。けれども、「貧しい人」とは自分の欠けを満たすあらゆる欲求に苦しむ人のことです。また「捕らわれている人」は、罪に囚われている全ての人のこととして受け止めるべき言葉です。堕罪以来、罪に囚われてきた人類全体を指す言葉です。ですから、ナザレの会堂で主の言葉を聴いた人々はもちろん、私たちもその中の一人なのです。また「圧迫されている人」も、この世での悪評や世間体、仕事の重圧、また罪責感等に押しつぶされそうな全ての人を指す言葉として受けとめたいのです。いずれも、自分で自分を救えないけれど、救いを渇望する全ての人のことを指し示しています。
 また「主の恵みの年」とは旧約聖書の「レビ記」等に見える「ヨベルの年」のことです。50年に一度その年が来ると、大きな角笛の音が響き渡り、奴隷が解放され、借金が帳消しになる等様々な重荷や負い目から人々が解放される年の到来が告げ知らされました。
 そして主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21)と語られました。
 それは、罪からの解放が告げられ、神様の真実を見ることができなかった人々の目が開かれる喜びの時。全人類の救いと解放の時がやって来たことを告げるヨベルの角笛が響き渡る時が、今こそ来ている、今こそ、そのこの上ない恵みの年、救いの時が始まったということです。罪からの解放と神さまの救いを心から求める人たちに「主の恵みの年」が来た、それが今実現されたと主は宣言されたのでした。
 また「主の恵みの年」の「恵みの」と訳されている形容詞は、本来「気に入る」「受け容れられる」「喜ばれる」「歓迎される」という意味の言葉ですから、それは「神様の喜ばれる年」、「神様が気に入ってくださる年」とも言えるのです。  
 つまり、主イエス・キリストが既に来られて、主の十字架と復活のみわざがすでに実現された後の私たちの日々は、「神様が受け容れ」られ、神様こそが「喜ばれ」、「気に入」ってくださる年だということです。そうであれば、私たちは、もう「ヨベルの年」が次にいつ来るのかを指折り数えて計算したり、旧約聖書の記述のように50年もの間囚われたままだったり、雁字搦めで解放される年を待つ必要などないはずです。何故なら、すでに、主キリストが来られたからです。十字架と復活のみわざが実現されたからです。私たちの解放者であり、救い主であり給う御方が、その尊いみわざを成就されたからです。私たちを雁字搦めにする罪、またその罪が導き出すあらゆる圧迫や困窮から、私たちを解放する喜びの年…神様の恵みの年が、今もうすでに実現されているのです。
 ですから、世間体や職場や家庭や学校での心ない言葉も仕打ちからも、或いは、子ども時代に心に植えつけられ縛られてきたあらゆる呪いからも、過去に受けた心の傷や辛い記憶からも、私たちは自由であっていい。いいえ、もう自由にされているのです。人間の罪を起因とするあらゆる苦悩から、主にあって自由にされているのです。指折り数えてその日の到来を待たなくても、すでに私たちは、神さまの祝福の中に置かれているのです。
 そして、私たちがこのみ言葉を聴いた今日のこの日もまた、私たちの罪からの解放と救いのための「主の恵みの年」のその一日なのです。