幸福のぶどう園
説教要旨(6月28日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 20:9-19
牧師 星野江理香
この箇所のたとえ話の主要登場人物であるぶどう園の主人が、旅立つ前に、既に自分がきちんと整えたぶどう園を農夫たちに委ねたのは、この農夫たちをよほど信頼していたからに違いありません。そしてどれほどの期間を経たかはわかりませんが、いつしか農夫たちは、自分たちに「主人」がいることを忘れて、ぶどう園の「主人」は自分たちだと思い込んでしまったようです。それはまるで、神さまを忘れてしまった私たちの世界のように…。そのため、ぶどう園の主人が自分の取り分を確保するため遣わした僕たちは、彼らにとって単なる邪魔者、収穫の簒奪者と見なされて、袋だたきにした上空手で追い返されるのです。しかしそれでも「主人」は、大事なぶどう園を委ねた農夫たちを信頼して二番手、三番手の僕を送るのですが、いずれもさらに酷い目にあって帰って来たので、最後に愛しい我が子、跡取り息子を農夫たちのものに遣わします。そこには、未だに農夫たちに対する主人の信頼と愛がありました。ところが、農夫たちはまたも主人の信頼を裏切り、むしろ「跡継ぎ」さえいなければぶどう園を自分たちのものにできると、跡継ぎ息子を殺害してしまう、そういう残酷なたとえ話です。そして、このたとえ話を直接聴いた人々が「そんなことがあってはなりません」と言うように、それは確かに「あってはならない」話でした。
けれども、このたとえ話と同じことが現実には起こってしまいます。というのも、ここで「ぶどう園の主人」に譬えられているのは父なる神さま。農夫たちとはこの世界の人間たち。また三人の僕とは、歴代の「預言者たち」の比喩だからです。神さまがその愛と信頼のゆえに委ねてくださった世界を、私たち人間は、たとえ話の農夫たちのように我が物顔で支配し、いつか自分たちに真の「主人」がいることを忘れて、預言者たちを疎んじ、その言葉に耳を貸しませんでした。そして、たとえ話のぶどう園の主人の跡取り息子とは、
み子主イエス・キリストのことですが、この世は、「ヨハネによる福音書」の冒頭にも見るように、闇を駆逐する真の光である御方を「理解しなかった」(ヨハ1:5)ばかりか「受け入れ」ず、ぶどう園の主人の跡取り息子同様、殺してしまいました。そうして本来は隅々に至るまで神さまのものであるこの世界を我が物顔に支配して人の罪のままにしたいとばかりに、神のみ子を十字架の上で惨殺したのでした。…なんと心を暗くさせる話でしょう。でも、少し立ち止まって考えてみたいのです。
このたとえ話の中で最後にチラリと登場する跡取り息子はぶどう園の主人の側の人物としてアっという間に殺されて終わりますが、現実のみ子はそれで終わりはしませんでした。唯お一人の真のみ子は、主イエス・キリストとして、真の神であると同時に真の人間であるという稀有な御方としてこの世にお生まれになり、それゆえに、完全に神さまの側の御方であると同時に完全に私たち人間の、つまり全ての者が罪びとである全人類の全ての罪を引き受けられ、その罪もろ共十字架にて死なれたのです。主はそうして罪への勝利を全人類のために勝ち取ってくださり、またご復活によってその確かさを明らかにしてもくださいました。
かつて人間は、たとえ話の農夫たちのように、神さまの愛しいぶどう園であるこの世界の、真の主人である神さまを裏切って、神さまとの本来の関係を自ら断ち切ってしまいました。けれども、今や主イエス・キリストと結ばれた私たちは、主の十字架のみわざにより罪赦されて、神さまとの和解も叶いました。
聖書にはぶどうに関連する言葉が数百回も使われていて、それはかつてイスラエルの人々の生活には欠かせないものでした。また、たわわなぶどうの実りは、神さまがご自分の民に与えられた約束の地の祝福の一つでもありました。
そして今や主キリストのみわざによって神さまの愛のご支配のもとに護られている私たちは、神さまの祝福で満たされた所…その象徴である「ぶどう園」で、「真のぶどうの木」でおありになる主イエスのひと枝として、安心して日々を過ごしてゆくことをゆるされています。そしてまた、誰もがこの“幸福なぶどう園”に招かれてもいるのです。