良い未来
説教要旨(3月29日 主日礼拝より)
エゼキエル書 47:1-12
牧師 小宮一文
二年くらい前からだんだんとこの言葉に心を捕らえられました。そしていま私の一番好きな聖書の箇所になりました。神さまが預言者のエゼキエルにある幻を見せました。神殿の敷居の下から水が湧き上がり、それが神殿の外に向かい、くるぶしくらいまでの高さの水が先に行くと腰の高さになり、やがて泳がないと渡れない川になり、その川は海にそそぐという幻です。イスラエルがバビロン捕囚によって崩壊し、異国の地に連れ去られたとき、この幻が語られました。
この箇所に感情に訴えかけるような言葉はありません。川が流れていくということだけです。無機質で淡々としています。ハイキングなどをしたとき、一日中、川の傍を歩いていると、家に帰ってからも沢の音が耳に聞こえるということがあります。それに似ています。そういう点で、この聖書の言葉は私にとって身近です。川のせせらぎがいつもどこかで鳴っている感じがします。
川は人の願いや意志と関係なく流れるものだと思います。私は散歩やハイキングが好きで、隅田川や荒川を通るとき、「この川の水をせき止めることはできない」という当たり前のことを思います。それは奥多摩の小さな川であっても不可能です。
川が流れることは不可避で、流れを止めるのは不可能です。神さまは川の幻を通して、神の国はいやおうなく来ること、そしてそれは今日も確実に進んでいるということを、イスラエルの民に知らせようとしたのだと思います。
神さまは将来に希望を見いだせず、行き詰りを感じている人びとにそのことを伝えました。毎日を無為に思うなら「それは違う」と。「あなたの今日一日は神の国へたしかに進んだ一日だったのだ」と。
神さまはそれを肌の感覚をもって分からせます。頭ではなく身体で。くるぶしが水に浸る感覚。腰が水に浸る感覚。そして問うていると思います。「あなたが浸かっているその水の流れをあなたは止めることができるだろうか」「川が流れ、水が広がっていることをあなたは否定できるだろうか」。それを通して神さまが言いたいのは「あなたが今日生きた一日はいやおうなく水が増し、川の幅を広げた一日だった」ということです。自分自身がどう思うかに関係なく。
川の水が増えて流れるように、いやおうなく神の国の完成へと進んだ一日だったと思うとき、未来に期待することができます。世界は命の水で満ちる日が来る。
ユダヤ人はなぜ世界に散らばり、商人をし、旅をしてきたのか。それはこの世界が神のものだと知っていたからだと思います。水はいやでもくるぶしのところから増えてくる。それを知っているとき、大胆になれます。未来に対し、旅の先に対し、「良いことがいやでも待っている」という予感がいやでもする。そういう人は柔軟で強靭です。人生に挫折するよりも左折して生きます。
しかしイスラエルはカナンの地に定住し、王国を立てたとき、堕落しました。偶像を所有することが可能になりました。遊牧生活だったら、偶像は持っていくのにただ重いし邪魔です。しかし定住し偶像をいかに誇るかに心が向かいました。そして旅の先、未来への期待を失いました。
なにかに執着して生きるのと、なんとなく未来に期待して生きること。どちらが正しいとか言えませんが、楽しいか楽しくないかだったら、後者のように、未来や旅の先に期待しながら生きるほうが、楽しそうな感じはします。なにか良いことを予感する人は、旅をし、探す人だと思います。そのせいで私は物が減りました。何かを積み上げること、「これを失ったら自分を失う」なんてものはないと知りました。むしろいつも新しく何かに出会い、知ることを楽しいと思うようになりました。
散歩はいいです。たまに知らない道を歩いてみるのも気分の良いことです。自分の知らなかった風景を見ます。そのとき、一つのところで偏執していたものは一瞬かもしれませんが、大きな問題ではなくなります。そのとき、川幅は一ミリでも広がって、水はたしかに海に進んだと、その日言えるのではないかと思います。