神の気前のよさ
説教要旨(11月9日 朝礼拝)
マタイによる福音書 20:1-16
牧師 藤盛勇紀
このたとえ話は誰にでも分かる話ですが、納得行くかどうかは別です。多くの人は「ちょっと待って。こういう扱いはないだおう」と思うはずです。フルタイムで働いた人と、1時間のアルバイトが同じ賃金。誰だっておかしいと思います。
しかし、「天の国」はこういうものだとイエス様は言われるのです。19章の後半から問題にされたテーマが続いています。あの「金持ちの青年」は、イエス様から「私に従って来なさい」と招かれました。しかし青年は結局、悲しみながら立ち去ってしまった。そして最後に、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とのお言葉。それが今日の箇所の最後でも繰り返されます。
イエス様の話は、労働者と雇用主はどうあるべきかとか、公平な社会のシステムの話などではなく、預言者たちを通して語られた、神に立ち帰って生きる恵みのことです。神は私たちをどうご覧になり、どう扱い、どうかかわっておられるかです。神は、私たちがどんな状態に置かれていようと、「そのままで、私のもとに来い」と言われる方です。朝でも昼でも、もう夕方になって「私は何の働きもできない」と思っていても、「私のところに来い」と言われます。あなたを待っておられるのです。そして、価なしで、神にある豊かさを味わい楽しんでほしいのです。あの失われた一匹の羊を見つけた人のように、1枚の銀貨を見つけた女性のように、「一緒に喜んでくれ」と。そして、自分勝手に家を飛び出し、惨めな姿で帰って来た「放浪息子」を見つけた父親のように、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言うのです(ルカ15章)。それがあなたがたの神、天の父なのだと。
しかし、人はそう簡単に喜ばない。「妬む」からです。常に人と比べてでないと、自分の価値が分からない、分かろうとしないからです。朝から働いた人のように言うのです。「この連中は一時間しか働かなかった」「丸一日、暑い中を働いた私たちとこの連中を同じ扱いにするとは!」と。「この連中」と一緒にされることが許しがたいのです。全くあの放蕩息子の兄のようです。惨めで恥ずかしい姿を晒した弟のために、父親は大宴会を開く。兄は怒りに震えて父親に言います。「私は何年もお父さんに仕えて、言いつけに背いたことも一度もありません。なのにあなたは、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる!」。不当じゃないか!と。
放蕩息子の兄もあの労働者も、父と共に生きる幸い、主人と共にある幸いが分からなかった。不平をぶちまける人を、主人は「友よ」と呼びます。「私と約束をした(心を合わせた)ではないか」と。あの朝、主人に雇われて、思いが一つになったことをを喜んだのです。あの父親は、「子よ」と呼びます。「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」、私とお前は一つなんだと。
私たちの主は、ご自分の豊かさを全て私たちに与えて惜しみないお方です。なのに私たちは、あの兄も、朝から働いた人も、金持ちの青年も、「私はこれだけやった」「なのにあの連中は」と比べることにしか自分を見出さない。だから、そこに自分の主が入る余地もないのです。金持ちの青年のように、「私は何をすれば」から出られないのです。
この不幸は、「主を見ていなかった」の一言に尽きます。ぶどう園の主人が、「私の気前のよさをねたむのか」と言います。「なたむ」と訳されている言葉は、単に「目が悪い」という言葉です。「気前のよさ」も、単に「良い」という言葉。どんな時にも真実に良い方である主の目の前で、私たちは目が悪くなって、主を見ないのです。上を見ずに横ばかりキョロキョロして「どっちが上だ、下だ」「先だ、後だ」と、浮いたり沈んだりするのです。
しかし、主は「私のところに来い」と言われます。いや、すでに主が、私に来てくださっている。私以上に私に近いほど、主は私と共にいて、私と一つの命となってくださっています。パウロが言うように、主が私を生きてくださっている! 今生きておられるこの方と共にあること、共に生き生かされていることが神の国、永遠の命なのです。