ただ一人の悲しみ
説教要旨(8月16日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 26:36-46
牧師 藤盛勇紀
最後の晩餐(過越の食事)の後、イエス様と弟子たちはオリーブ山に出かけます。ゲツセマネに来ると、主は弟子たちと少し離れた所で祈られました。イエス様はひどく悲しみ苦しみながら祈られます。主は「わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われましたが、彼らは主が祈っている間に眠ってしまいます。2度目に主が命じても、やはり眠ってしまう。3度目も同じ。主は「もうこれでよい」と言われました(マルコ14:41)。主は一人で祈り、弟子たちは皆眠っている。これでよかったのです。また無理もないことでもありました。
過越祭には多くの小羊が屠られますが、イエス様はご自分を「最後の犠牲の小羊」と認識しておられます。食事の席で、主は衝撃的な予告をします。弟子たちの中に主を裏切る者がいる。彼らは激しく動揺し、皆口々に「主よ、まさかわたしのことでは!」と言います。主を裏切るなんて考えたこともない。いったい誰が? 皆疑心暗鬼になり、猜疑心が入り込み、冷たい空気が流れています。
食事の後、オリーブ山でさらにショッキングな言葉を聞きます。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」。つまずかせる石を、人は邪魔ものとして蹴っ飛ばす。そのように弟子たちは主を捨てる。「あなたがたは皆」そうだと。弟子たちにとって、息の根が止まるような一撃でした。弟子たちは必死に否定しようとしますが、どうあがこうと無駄です。
弟子たちは大きなダメージを受けています。彼らは皆、「この方こそメシア」と信じ従って来ました。このエルサレムで主はメシア、ユダヤ人の王として立ち上がる。この方のためなら命を捨てる覚悟がある。なのに、この方を俺たちが裏切り見捨てるというのか?
彼らは、自分の信仰も忠誠も信頼も希望も、主の前で粉砕されています。もうおしまいなのか。体は疲れ、精も根も尽き果てています。
イエス様はと言えば、「悲しみもだえ始められた」。この悲しみ苦しみは、どう理解すればよいのか。私たちはいろいろ想像しますが、この悲しみは私たち人間には味わうことのできない悲しみ苦しみです。
イエス様は真の人にして真の神、父と子は一つです。イエス様は真の神を知っている唯一の人だからこそ、死ぬほどに悲しく苦しいのです。真の神の子が十字架で父から見捨てられる。この悲しみと苦しみは、イエス様だけにしか分からないのです。イエス様は私たちを、後ろ手にかばうようにして独り神の裁きを受けて死ぬ。その死に向かわれます。
真の人イエス様は、本当に死ぬほどに悲しかった。だから弟子たちに目を覚ましていてほしかった。もうすぐ自分は捕らえられ十時につけられる。これが弟子たちと共に居られる最後の時。だから一緒に父なる神に心を向けてほしかった。しかしそれは叶わない。
イエス様の悲しみは「一人きり」になる悲しみです。それは、誰にも理解されず、愛した人たちからも見捨てられて一人きりになる苦しみ、ではありません。
「どうせ誰にも分かってもらえない」とか「どうせ私は独りだ」と思うことがあります。しかしそれは勘違いか、ただ知らないのです。人間は真の意味で「独り」にはなれません。人は「独りぼっちの悲しみ」の故に死んでしまうことがあります。それは、勘違いしたまま死んでしまう悲劇なのです。本当のことを知らず、あるいは知らされたけれども、それを蹴飛ばしてしまった悲劇です。イエスという人のことを聞いたが、自分と何の関わりがあるのかと思う。
だから、イエス様ご自身が人をつまずかせる「つまずきの石」と言われるのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」(ローマ9:33)。神が、つまずきの石を置く。イエス様も言われました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」(マタイ21:42)。ペトロも、この「つまずきの石」を信じる者は、失望することがないと言っています。
だから知ってほしいのです。人からも神からも見捨てられて死んだ神の子イエス。神によって置かれたこの「つまずきの石」を、拾うように信頼する人は、決して失望することはありません。