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神の沈黙と人間の狂騒

説教要旨(9月20日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 27:15-26
牧師 藤盛勇紀

 捕らえられて裁判を受けるイエス様と、それを取り囲む人間の様子を見ています。「イエスを十字架につけろ!」と激しく要求し、騒ぎ立てる群衆。一時は、「このお方こそメシア」と信じたはずの群衆は、イエス様よりも、バラバの釈放を要求します。彼らはつい最近まで、イエスこそ神からのメシア、イスラエルの王になる方、と期待をかけていました。なのに今、見る影もない(イザヤ53:2)。期待を裏切られたという思いもあったでしょう。それならば、実際にローマに対して武装蜂起したバラバの方が期待できる。群衆は期待の反動のように「十字架につけろ」と叫びます。
 「ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、「群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた」。イエスを訴え、殺そうとしているのは群衆全体になってしまっています。ピラトは、騒動が起こりそうなのを見て、群衆の前で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない」と言い、民はこぞって「その血の責任は、我々と子孫にある」と宣言してしまいました。
 イエス様はかつてこの群衆を見て、「飼い主のいない羊」のように深く憐れまれました。人々はイエス様の言葉と力を見て、この方こそメシアだと思いました。しかし宗教指導者たちは、イエスは「悪霊の頭の力で奇跡を行っている」と断定しました。人々はもう何を信じればよいのか分からない。そんな群衆の有様を、イエス様は、はらわたが締め付けられるような深い憐れみをもって見ておられたのです。この「失われた羊」を命へ導くために、イエス様は世に来られたのです。
 ところが、その深い憐れみを受けている彼らが、イエス様を十字架につけようと叫んでいる。イエス様は沈黙しておられる。神の沈黙です。しかし前回も言いましたが、イエスご自身が神の言葉なのです。この方の沈黙を通して神は全力で語っておられます。このイエスの存在と今のお姿に、神に反逆する人間、罪人を救うという意志が現れています。そして、これはまさに預言者を通して表された神の約束なのです。
 ここに現れているのは、神不在の中を生きる人間です。本当に神がおられないのではありません。神が生きて働いておられるのに、人間の側が神を見失い、「神などどこにいる」と思っているのです。祭司長や長老たちは、自分たちの立場を守るためにイエス様を殺そうとします。ピラトも、ローマの権威と群衆の顔色をうかがいながら、自分の立場を守ろうとします。群衆もまた、自分の期待や怒りをぶつけています。誰もが自分を守ろうとしている。
 しかしこれは、私たち自身の姿でもあります。神を信じていると言う者も、自分の思い、怒り、恨み、妬みなどに心を支配されると、神が語っておられること、神が働いておられることが分からなくなります。「信仰によって祈る」と言いながら、実は神に向き合わない独り言になってしまう。神を信じているはずなのに、神を「いないもの」としてしまう。そこに「神不在」の恐ろしさがあります。
 だから、祈るときに大切なのは、まず沈黙することです。何でも祈ってよい。しかし、その前に黙って静まり、神に心を向けるのです。神は常に語り、常に働き、御心を私たちに示そうとしておられます。それなのに、いきなり自分の思いを第一にして、つぶやいたり、わめいたりすれば、神の言葉が聞こえません。特に、憎しみ、恨み、妬みといった思いは強く、神の思いをかき消してしまいます。
 聖書の言う「敬虔」は、ひまわりが太陽の方を向くように、まず自分を神の方へ向けることです。心を神へ向け、手を開いて、神の光を受けるのです。「主よ、ありがとうございます」と恵みを浴びる。そこで、主が何をなそうとしておられるのか、私たちがどこへ進めばよいのかが示されていきます。
 人々が叫び続ける狂騒の中で、黙って十字架へと向かわれるイエス様。その沈黙の中に、罪人を何としても救おうとする神の御意志があります。この世と人々の喧噪の中で、まず静まって、上なるお方へ思いを向けたい。神は霊であり、恵みは私たちの内なる霊によってしか知り得ません。生ける主との交わりを求めるなら、まず黙って静まる。神ご自身が親しく私たちに示してくださいます。