殴られるメシア
説教要旨(9月6日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 26:57-75
牧師 藤盛勇紀
「最後の晩餐」の夜、イエス様の最後の夜が続いています。過越の食事が終わって、イエス様と弟子たちは、オリーブ山に出て行きました。そこで、主は血のような汗を流す祈りを献げますが、弟子たちは心身共に疲れ果てて、皆眠り込んでいました。ちょうどそこに、あのユダに手引きされた大勢の群衆がイエス様を捕らえに来て、イエス様はあっさりと捕らえられ、弟子たちは皆、主を見捨てて逃げてしまいました。主は、ご自分が愛し抜かれた全ての弟子たちに裏切られたのです。そして、今回の場面です。
イエス様はまず、大祭司の屋敷に連行され、そこで大祭司の裁判、審問が始まりました。この後、十字架の死に至るまでイエス様はほとんど何もなさらず、人々の思惑と悪意に身を委ね、沈黙を続けられます。これまで示されてきた偉大な力も神の介入も見られず、まるで神さえ沈黙してしまったかのような、真っ暗闇の時です。神の御子であるイエス様が、あらゆる人から見捨てられ、罪人として、人間の目には「ただの一人の人」として死に向かわれます。
イエス様は、ご自分からは何もなさいません。全く無力な、ただの人となっています。神の御子イエスは《一人の人》として生まれ、一人の人として生活され、今《一人の、ただの人》として大祭司の前に立っておられます。そしてあらゆる人々から見捨てられ、神を冒涜した罪人として、神に呪われた人として、人からも神からも捨てられて死ぬのです。
使徒パウロは、このイエス様を「最後のアダム」と呼びます。最初のアダムは、神に背を向け、神ではないものによって生きようとしました。その結果、罪が世に入り、罪によって死が入り込みました。以来、すべての人間は「罪と死の法則」に支配され、いつ訪れるか分からない死を前にして、根本的な不安の中に生きています。
しかし神は、そんな「アダムにある人間」を終わらせるために、イエス様を「最後のアダム」としてくださいました。イエス様は十字架への道を黙々と歩んで、アダム以来、神との本来の関係を失い、罪と死に支配されている人間を、終わらせようとされます。人間は今も生きていますが、それは「最初のアダムとして」生きているのです。
大祭司が「お前は神の子、メシアなのか」と問いただした時、イエス様は「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来る」と宣言されます。間もなく十字架につけられるイエス様は、その死の先にある復活、昇天、聖霊の降臨、弟子たちによる福音宣教、そして世の終わりに神の国を完成させるところまでを見ておられます。目の前では敗北するように見えるイエス様ですが、実際には神の救いの計画を成し遂げておられるのです。
一方、ペトロは「たとえ一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなどとは言わない」と豪語していたにもかかわらず、三度もイエス様を否認します。後で大祭司の屋敷に潜入したペトロが見たのは、尋問されても沈黙し、唾を吐きかけられ殴られ、嘲られる主の姿でした。「この人が本当に神の子、メシアなのか」と絶望したペトロは、「そんな人は知らない」と完全に否定します。鶏が鳴いた時、主の言葉を思い出して激しく泣きます。もしイエス様の十字架の死がそのまま「終わり」だったら、ペトロも弟子たちも、裏切り者として生き続けるしかありませんでした。
だからキリスト信仰は、徹頭徹尾「復活」信仰なのです。十字架は罪の贖いの中心ですが、それは「イエスは生きておられる」という信仰を前提としています。復活したイエス様を信じていなければ、十字架による贖いも単なる教えや思想になってしまいます。大切なのは、「イエス様が私の罪のために死なれた」と告白するだけでなく、その復活された主を信じて、今、自分がどう生きるのかということです。
主は今も生きておられます。私たちはこのお方を「私の神、私の主」と信じ、イエス様と結ばれ、一体とされます。だからイエス様の十字架の死は「この私の死」でもあります。私はすでにイエス様と共に罪人として十字架につけられて死にました。そして、主が生きておられるから、私たちは今、復活の命、神の命によって生かされているのです。