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賢い乙女のように

説教要旨(6月21日 CSとの合同礼拝より)
マタイによる福音書 25:1-13
牧師 藤盛勇紀

 「十人のおとめ」は、花婿が到着したら、「ようこそ来てくださいました。さあ参りましょう」と大喜びで迎えて、婚宴の部屋に案内します。ところが、日が暮れても花婿は到着せず、10人のおとめたちは皆眠り込んでしまいました。夜中になってようやく花婿が到着します。「花婿だ、迎えに出なさい!」との声に、おとめたちは皆起きてともし火を用意します。10人のうち賢い5人のおとめは眠らずに目を覚ましていたでしょうか。ずっと眠らずにいるなんて無理です。「目を覚ましている」とは、眠らないことでも、神経を研ぎ澄まして緊張していることでもありません。
 イエス様は24章からずっと「世の終わり」の時のことを話しておられますが、確かなことは、その時恐ろしいことが起こったとしても、慌てたり惑わされたりするなということです。その時には、誰にでもハッキリ分かる仕方でイエス様は来られるからです。だから普段通りに生活していればよいのです。
 では、「目を覚ましている」とはどういうことか? イエス様は終わりの時にまた来られます。しかも、今も私たちと共にいてくださり、今も語り働きかけておられます。イエス様が私たちに求めておられ、期待しておられることは、主が私たちのところに来られた時にも「ともし火」を灯していることです。そして、そのともし火を、いつも灯しているための「油」を用意していることです。
 この大切な油は、自分の分が無くなったからといって、人から分けてもらうことはできません。あなたの油はあなたにしかない。あなたのともし火は、あなたにしかありません。一人一人にともし火があり、油もあるのです。昔から、ともし火って何なのか、必要な油とは何だろうと考えられてきました。何でしょうか?答えはいつくかあると思いますが、聖書ではまず、油はよく聖霊を意味します。聖霊は神ご自身。油のように買ってくるわけには行きません。自分で捕まえるものでもありません。聖霊はすでに私たち一人一人の所に来ておられます。ただ、多くの人は気づきません。「神様はあなたに来ていて、働いておられます」と聞いても、すぐには信じません。神の霊が来ているのに、「そんなの要らない」と受け入れません。
 人は自分の目で見ないと信じません。見えなければ、「証拠を出せ見せろ。証明できたら、信じてやる」と思っています。でもイエス様は、「見ないで信じる者は幸いだ」と言われました。聖書は、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」と言います。永続するもの、本当に大事なものは、みんな見えないものなんですね。神様も愛も、希望も見えません。ただ、信仰で見るんです。その信仰を与えてくれるのも聖霊の働きです。
 聖書は、「霊」について、こうも言っています。「神を知るのは、神の霊だけ」だと。「私たちは神様の霊をいただきました。それで、私たちは、神様から与えられた恵みを知るようになりました」と。
 「神様の恵みが私にも与えられている」それを知っている人は、神の霊をいただいて受け入れている人だけなのです。その恵みが、その人の「ともし火」を灯すことになります。そしてその人は、主が来ておられることも分かるのです。そして、終わりの時にはハッキリと、「主が来られた」「イエス様が来られた」と分かりますから、大喜びでイエス様をお迎えして、一緒に喜びながら、お祝いの場に行くのです。
 「目を覚ましている」とは、すでに私の所に来ておられるイエス様をお迎えして、今の生活から、「主よ」「イエス様あのね」と、主と一緒にいることです。食べたり飲んだり、寝たり起きたり、時に病気になったり、喜んだり怒ったりしながら、毎日主と一緒ということなんです。そのような生活と人生があって、終わりの時には、「イエス様、いま来てくださったんですね。よく来てくださいました」「では、参りましょう」と言えるんでしょう。
 イエス様は「世の終わり」の時の話をされましたが、ほとんどの人は世の終わりの前に、自分の人生の終わりが来ます。でも、それまでずっと主と一緒に生きている人は、慌てません。大喜びで、「イエス様、では一緒に参りましょう」と言って、嬉しい祝宴、祝いの場に入って行くのでしょう。