おお!何という深さ
説教要旨(11月16日 CSとの合同礼拝より)
ローマの信徒への手紙 11:33-36
牧師 藤盛勇紀
教会学校との合同礼拝なので、教案に沿ってローマの信徒への手紙を読みました。16章ある長い手紙の途中11章最後の言葉です。パウロはずっと、イエス・キリストに現された神の偉大な恵みを語って来ました。そして今、最も高い所に来て、感動しています。頂上の見晴らしの良い所に立つと、誰でも「おお!」と言います。他に言葉が出ません。眼下に街々が小さく見え、ずっと先には海も広がっている。そこでも、「おぉ、あれが…」。
今日の最初の言葉は「ああ」です。ギリシア語の「オー」そして「バトス(深さ)」。「おお!何と深い…」。人は大きなものに触れて感動すると「おお」と言います。その感動の中で思います。「人間って何と小さいのか」「人が造ったものは何て小さいのか」。パウロも大きな恵みを見渡すように、感動して言います。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン!」。
この礼拝で最後に私たちから出る言葉は「頌栄」です。パウロが感動している言葉もまさに頌栄です。頌栄はただ神をほめたたえる言葉。イエス様に現された神の愛と憐れみと恵みの深さ、大きさ、高さを知ると、他のどんなに大きなものも、驚くべきものも皆、後ろに引っ込んでしまいます。「おお、主よ」「アッバ、父よ」「御子イエスよ」「聖霊よ」。その他に何の言葉も要りません。
今まで抱えていた心配事や願い事、そんな自分の中の思いが、一気に退きます。「どうしても動かない」と思っていた山のような悩みも吹っ飛びます。自分にこだわることも終わり、「おお、主よ、あなたは何と深いのか」。秋の青空のように、高く仰ぐような深さ。それは、自分のものに目を落として、自分に心が向いている人には分かりません。でも、神の深さは、どこで分かるでしょうか?
「知恵と知識の宝はすべて、キリストにあります」(コロサイ2:3)。キリストに「神の富と知恵と知識」の深さがあります。それは私たちの本当の「宝」です。キリストにその全てがあります。パウロはそれをできる限りの言葉を尽くして語りました。そして今日の箇所がピークですが、実は8章でも一度ピークに立ったのです。8章最後の言葉は感動に満ちています。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、…主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです!」。歌い上げ、叫ぶように語ります。そして、続く9、10、11章まで、「高さ・深さ」だけでなく「広さ・長さ・遠さ」を望み見ました。そしてまたピーク来て、同時に計り知れない「深さ」を見ています。「おお!何という深さ」。
感動は、たとえば実際に山に登ってみないと分かりません。その素晴らしさは、そこに来ないと分かりません。素晴らしさを知った人は、「一緒に行こうよ」「来てみなよ」と勧め、招くことしかできません。同様の感動をもって書かれた言葉がエフェソ書にあります。「どうか、御父が、…あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、…キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか理解し、…ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」。私たちも、このパウロの祈りと思いを共有しています。
その恵みを味わって行くと、自分を縛っていた悩みや心配や不安、そんな小さな自分のものは引っ込んで、解き放たれた自由と平安で満たされるようになります。「ああ、なんで私はこんな小さな問題にしがみついていたんだろう」「なぜ、目の前にあったこんな大きく広い恵みが見えなかったんだろう」と、自分が自分から解放されます。「ああ、私の内にキリストがおられる。私はこのお方の内にいる」。愛と恵みが自分を包んでいることが分かってきます。「ああ、私は満たされている」「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」。
神とその命そのものであるイエスに全てがあります。主は「私が道であり、真理であり、命である」と言われました。あなたの人生も将来もこの方にあります。ぜひこの方に思いを向けてください。そしてこの方に結ばれて「おお!」と、祝福の高さ・大きさ、深さを自分の人生で味わってください。