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目を覚まして時を迎える

説教要旨(6月14日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 24:32-51
牧師 藤盛勇紀

 イエス様は、はっきりと言われました。「天地は滅びる」。この「滅び」は、過ぎ去ること、失われることです。全ては終わるという単純な真理。しかしそれがいつなのか分からないので、多くの人は不意打ちを食らう。だから「目を覚ましていなさい」と言われます。
 「終わり」の時、何があるのでしょうか。「主の到来」があります。そこに主がおられる。はっきり分かる仕方で、顔を合わせるように「私だよ」と。その時私たちは、慌てたり恐れたりするのでしょうか。主は、いま備えて生きるよう教えておられます。終わりの時、主は何を望んでおられるのでしょうか。
 「忠実な僕と悪い僕」のたとえで言われます。「言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」。この僕を主人は信頼し、務めを任せています。そして、自分が帰った時にこの僕と会うのを楽しみにしています。この僕は、主人が不在の間、主人が語っていたように、主人がしていたように、彼もそのように生きていたのです。
 主人は「家の使用人たちの上に立てて、時間通り彼らに食事を与えさせることにした」。命の糧を必要としている者に糧を与える。この主人の心を行うことが、僕に委ねられています。主が私たちに与えてくださって、私たちも人に与える糧は、何でしょうか。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と主は言われました(4:4)。パンだけで生きるなら、豚です。しかし人は、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。主がメシアの働きを始められた時、主を誘惑した悪魔に語られた言葉です。
 悪魔は神のご計画を知っています。神は罪人を愛してご自分の命を与え、神の子としてしまう。イエス様の公生涯は、この神のご意志を現す歩みでした。だからイエス・キリストが「神の言葉」だと言われるのです。そしてこの方は、終わりの時に明らかにご自身を現し、全てをご自分のもとで完成されます。全て存在の意味が開示され、満たされ、不条理も人生の謎も、流された涙にも答えられ慰められ、神ご自身が涙を拭ってくださる。
 この方に結ばれた者は、未完で終わる人生を主と共に歩んで、命の恵みを味わって進みます。溢れ出てこぼれてくる天の祝福と恵みを身に受けて生きるので、その豊かさを人に分けるように伝えて生きます。そんな生き方をを知っているのが「忠実で賢い僕」です。
 それに対して「悪い僕」は、「主人は遅い」と決め込んで、主人無しの人生を好き勝手に生きる。主人はその僕をどうするか。「偽善者たちと同じ目に遭わせる」というのです。
 前の23章でイエス様は、「偽善者は不幸だ」と何度も繰り返しながら、激しく厳しい言葉で徹底的に非難なさいました。主が言われる「偽善者」とは、律法学者やファリサイ派、宗教指導者たちです。どこから見ても信仰深く、よく祈り、貧しい人々への施しもしっかりと行います。どう見ても信仰者の鏡。しかし、その人自身、じつは主と共に生きていなかった。主が生きておられるかどうかはどうでもよかった。主がいない。当然、人からどう見られ、評価されているかが全てになます。それが、主が言われる「偽善者」です。悪いことをしているかどうかではなく、主がおられるかどうかです。
 イエス様も使徒たちも、「目を覚ましていなさい」と教えました。「目を覚ましている」とは、物理的には離れていても、主が今ここにいてくださる、それが自分の生活のリアリティーになっているということです。簡単に言えば、主と親しい交わりをいただいているという。単純なことです。主のみ言葉に親しんで、「主よ、こうなんです」と、遠慮無く親しく、何でも主に打ち明けて生きていること(フィリピ4:5~7)
 このような、わだかまり無く、全く遠慮も無く、主との親しい交わりを確かめながら生きているなら、「不意打ちを食らう」などということはありません。「ああ主よ、今だったんですね」と。そして、そのとき手に付けていたことも大事なものも、さっさとその場に置いて、「主よ、参りましょう」です。
 その時は艱難が迫った時かもしれませんが、慌てることも恐れることもありませんし、未練もあわけがありません。そこに、主がおられるのですから。