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闇の中の光

説教要旨(12月21日 クリスマス礼拝より)
ルカによる福音書 2:1-20
牧師 藤盛勇紀

 貧しい夫婦が家畜小屋で初子を出産したあの夜、それが救い主の誕生であることを真っ先に知ったのは、野宿をしていた羊飼いたちでした。明るい光の中ではなく、人々の喜びや祝福に囲まれることもなく、誰からも何の関心も寄せられず、あらゆる人のつながりから追いやられるような惨めさ・暗さの中の救い主の誕生でした。直前の箇所に(78-79)、救い主誕生を預言した言葉があります。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。
 「暗闇と死の陰に座している者たち」とは誰のことでしょうか。当時のイスラエルの民ユダヤ人か。そうかもしれません。イスラエルの国はとうの昔に滅び、今はローマ帝国の片隅の民。唯一の神、主を信じる民ですが、神の言葉を力強く告げる預言者も現れなくなって何百年。「救い主は来られる」との期待を持ち続けていても、その気配も感じられない。「神の国を待ち望む」という言葉も空しく響くような暗い時代です。現代もそうですが、「いったいどこに向かうのか」。私たち自身の内にも、「死の陰」は差しています。
 しかし、預言者が語ったことがついに成就した!と聖書は告げます。大いなる光は輝いた!深い喜びと大いなる楽しみが来た!この事実を最初に示されたのが羊飼いたちでした。羊飼いとは「ある種の人間」のことをも意味しました。レッテルを貼られた人々。羊と一緒に生活する彼らは、ユダヤ人が大事にする安息日も休むことはできず、安息日の律法すら守れない罪人。町の人々から「うさん臭いうそつき」と決めつけられ、神殿での儀式に欠かせない羊を飼う仕事も、誰もやりたくない。罪人というのはどうだとか、神に逆らう者たちの言葉はこうだとか、そんな話を聞けば「ああ俺たちのことだ」と思ってしまう。思い込みですが、自分の思い込みによって、自分を神から引き離してしまう。それが人間の姿でしょう。そこから引き出されるとすれば、自分の外から来る命の言葉が必要です。誰でも、羊飼いたちのように「自分は神も救いも関係ない」と思う時があります。生きる目的も方向も見えない時、人生に意味などあるのかと思う時、自分には、ここという居場所もなく、まるで野宿の人生のように感じる時もある。それでも人の声が気になり、レッテルを貼られ、自分がどんな人間か決められてしまったように思い込んでしまう。人は皆、羊飼いのようものなのかもしれません。
 しかし、救いの到来の知らせは、真っ先に、神から遠いと思われていた羊飼いたちに届けられたのです。主の天使は、神の御使いですが、単なるメッセンジャーではありません。「何としても今、あなたに告げる」、そんな神の決意の現れです。あなたが、いつどこにいようと、何をしていようと、神の救いの決意とあなたへの憐れみを届けるために、どこへでも飛んで行く!それが、あの天使の翼を想像させたのです。
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。天使はまず「恐れるな」と言います。人は何を恐れているのでしょうか。結局は、真の神との関係の無さでしょう。神との関係が切れていれば、世の何かに捕らわれ、支配されます。虚無と滅びへの恐れと不安が常につきまといます。それが世の暗さでしょう。生きる意味の無さ、自分自身の意味や目的の無さと、その果ての死。そして、そのように落ちていく自分から決して逃れることができない。
 もし、本当に恐れなくてよいとすれば、「この私は決して無意味でも無価値でもない。見捨てられることもなく、滅びることも失われることもない」、それが確かでなければなりません。そして、それが自分の外から来るのでなければなりません。私を存在させ、私に命を与えてくださった神から来る。いや、神が私に来て、生きておられる!その事実でなければなりません。だから天使は、「あなたがたのために」と告げるのです。そして、「その出来事を見ようではないか」と、自分から一歩踏み出して行った人たちが、自分たちへの救いの恵みを確かめることになるのです。