口から出る言葉の源泉
説教要旨(3月2日 朝礼拝)
マタイによる福音書 12:33-37
牧師 藤盛勇紀

「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」。私たちはふだん「つまらない言葉」をどれほど口にしているかと思わされます。イエス様は、「蝮の子らよ」と激しい言葉で呼びかけていますが、相手は誰でしょうか? この言葉はイエス様の言葉としてはマタイにしか出てきません。言葉自体は3回出てきますが、最初は洗礼者ヨハネが民衆に向かって悔い改めを迫った時。あとの2回がイエス様の言葉です。今日の次に出て来るのは、主のご受難の直前です。主は律法学者たちやファリサイ派の人々と論争し、彼らを厳しく批判なさいました。「あなたたち偽善者は不幸だ。…蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」。最大級の批判と裁きの言葉です。
今日の言葉も、直接的には彼らに向けられた言葉です。直前の箇所で、ファリサイ派の人々はイエスがメシアであることを完全に否定し、悪霊の頭だと断定しました。これはユダヤの民を代表する判断です。イエス様は、その民を「蝮の子らよ」と呼ぶのです。洗礼者ヨハネと同様、イスラエルの民に対する裁きの宣言と共に発せられた呼びかけです。
イエス様はのちにエルサレムで、「蛇よ、蝮の子らよ…」と厳しく語り、捕らえられて、十字架に付けられます。その時、ユダヤの民衆は、死刑執行の権限を持つ総督ピラトに「イエスを十字架につけよ!」と要求します。そして、民はこぞって叫んだのです。「その血の責任は、我々と子孫にある!」。
イエス様は、いずれそのようになることをご存知です。それで今日、この時代のこの民に語られるのです。今日の直後の39節にもあるように、イエス様は度々、この「よこしまな時代」を嘆かれました。「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」と。
ここでのイエス様の言葉は、メシアを完全に拒絶するこの時代の民に対する言葉です。イスラエルの民自身がイスラエルの救いを拒絶し抹殺するという、通り取り返しのつかない罪を犯します。しかも、その報いは自分たちが受けると、自ら宣言するのです。
だからこそです。このお方、イエスに対して、私たちは何を言うかが問われています。この時代のこの民は、「イエスは主、メシアである」と言うことができませんでした。それどころか、イエスは神を冒涜する者、呪われた者だとして十字架につけてしまった。
十字架に付けられて殺されるこのお方を、私たちは何者だと言うのか? ある時イエス様は、弟子たちにそれを改めて問いました。その時、ペトロが弟子を代表して答えます。「あなたはメシア、生ける神のです」。人類初のキリスト告白に対して、イエス様は言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。
イエス様がご自身について求めておられること、願っておられることはこれなのです。「あなたはメシア、生ける神のです」という信仰とその告白。これは人間から出たのではなく、父なる神が現されたことだからです。
醜い罪を預言者から指摘されたダビデ王は、主に願いました。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」。ダビデも知ってたのです。神の前に清い心、善い心は、神によって創造されるしかない、「新しく確かな霊」が注がれることなしにはあり得ないと。
私たちも、新しく創造されて新生し、新しく確かな霊を注がれるのでなければ、裁きを免れず滅びるしかない者です。新しい創造も新生も、永遠に私たちの内に住まわれる霊も、全てキリストにあります。パウロは言いました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ること」だと。そして、私たちに注がれた霊によって、私たちは神を「アッバ、父よ」と呼びます。「蝮の子らよ」と呼ばれるしかなかった私たちが、死んで復活されたイエス様に結ばれて、その霊によって、神を「アッバ」と呼べる。これほど善い、麗しい言葉があるでしょうか。