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十字架につけられた神

説教要旨(10月18日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 27:45-56
牧師 藤盛勇紀

 この教会の礼拝堂には十字架がありません。キリストの十字架を重んじていないからではありません。むしろ逆です。十字架のキリストを、絵や像によって表すことは到底できないからです。使徒パウロは、ガラテヤ書で、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言いました。これは、肉の目で十字架の絵や像を見るということではありません。ガラテヤの信徒たちは、十字架につけられたキリストが分からなくなっていたのです。では、十字架のキリストが「見えなくなる」とは、どういうことでしょうか。
 今日のマタイ福音書は、十字架につけられたイエス様がついに息を引き取られる場面です。聖書は、十字架刑がどれほど凄惨なものだったかにまるで関心が無いかのように、淡々と記します。詳しく語られているのは、十字架の周りにいる人々の姿です。群衆も宗教指導者たちもローマの兵士たちも、イエス様を嘲り、罵り、侮辱しています。
 その中で、遠くからイエス様を見守っている婦人たちがいました。イエス様に従ってガリラヤから来た女性たちです。弟子たちは主が逮捕された時、皆逃げてしまいました。愛する者らに裏切られ見捨てられたイエス様は、十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びます。そして、大声で叫んで息を引き取られました。
 イエス様の死は、単なる人間の死と同じではありません。イエス様は真の神の子、ただ一人、真に神を知っておられる方。その神の子が、本当に神に見捨てられて死なれたのです。その意味でイエス様の死は、神だけが知ることのできる「本当の死」です。
 私たちも、「もう神からも見放された」と思うことがあるでしょう。誰にも理解されない苦しみ、誰とも分かち合えない痛みや悲しみがあります。しかし、神は人となり、私たちが経験する苦しみ悲しみと死、本当のお終いを、イエスにあって経験なさったのです。
 預言者イザヤは、苦しめられて屠られる小羊のような「主の僕」を語り、「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」と語ります。神の御子がこのように命を取られたのは、「私たちのため」だったと。神様は、そのようにして、私たちと一つ・一体となってしまうのです。だから私たちは、「誰にも理解されずに苦しむ」のでも「誰とも共有できない痛み」を痛むのでも「誰も知らない悲しみ」を悲しむのでもありません。イエスと一体とされたキリスト者は実は誰でも知っているはずのことです。私たちの苦しみは、キリストご自身の苦しみです。
 けれども、私たちはそのことをしばしば忘れてしまいます。パウロがガラテヤの信徒たちに問いかけたのも、まさにそのことでした。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。「キリストの体の肢として生きているあなたの痛みも苦しみも、キリストのものではないか」と言うのです。
 ですから、私たちが「私は神から見放された」とか「誰も私を分かってくれない」と思う時、神様はこう語っておられるのではないですか。「あなたと一体のイエスは、十字架で本当の絶望を味わった。私はイエスにあって、あなたを経験しているんだよ」と。
 私たちは時間の中で生きていますから、いつも後になって分かるのです。「あの時も主は共にいてくださった」と。「世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」という主の約束を、私たちは何度も忘れます。しかし後になってその恵みに気づき、それを何度も味わい直します。それもまた主から与えられた祝福です。
 マタイ自身、イエス様の十字架を記しながら、その先にある復活と終わりの時までを、信仰の目で一気に見つめていたのでしょう。罪人の代表のような徴税人であった時、「わたしに従いなさい」と呼んでくださった主。このお方を裏切り、終わった人間なのに今も共にいてくださる。自分もイエス様にあってすでに復活した者とされている事実と恵みを味わいなら、マタイはこの記事をここに記したのでしょう。
 こうして主は、もう終わったと思った人間、死んだに等しい人間を、ご自分のものとして、生きてくださっているのです。