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神が一つに合わせたもの

説教要旨(10月5日 朝礼拝)
マタイによる福音書 19:1-12
牧師 藤盛勇紀

 イエス様はいよいよエルサレムへ上られます。大勢の群衆に混じって、イエス様を試そうとするファリサイ派の人々が近寄ってきて、離縁について問いました。律法には離縁状を渡して妻を去らせると手続きが定められています(申命記24:1)。その規定は、夫が妻を「気に入らなくなったとき」とあります。気まぐれで勝手な感情のように思えますし、様々な問いに展開して行きそうな問題ですが、ここでは、イエス様が引用された創世記の言葉に注目したいと思います。
 まず、申命記の規定について一言触れておきますと、何か「恥ずべき」問題が露呈したとき、人間の愛の限界が露わになります。この規定があるのは、「あなたたちの心が頑迷」だからだとイエス様は言われます。心が固いのです。「ああ、もう嫌だ」となったらオシマイ。それが人間の現実です。
 しかし、主はこう言われます。「初めからそうだったわけではない」。人は確かに身勝手で頑迷です。だから離縁する場合の手続きを定める必要もある。けれども、「初めから」そうだったのではないのだと。「初めから」とは、人間が罪に堕ちる前のこととも思えますが、「初め」は、4節にもある「初め」です。創世記1章で、神が人を創造されたとき「男と女とにお造りになった。あの創造の「初め」。もちろん人間の罪以前です。神は言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。そして「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と、神のかたちが「男と女」と言われているのです。
 そして、2章で人の創造が具体的に語られます。土の塵から人が造られましたが、神は「人は独りでいるのは良くない」と言われ、「男と女」という一組となる話が語られます。人から「女」が造られたと。この「女」という言葉は1章の「女」とは違います。1章の「男と女」は男性と女性ですが、2章の「女」(イシャー)と「男」(イシュ)はユニークな関係です。だから「夫」「妻」とも訳されます。
 主が言われる「初め」とは、「二人は一体となる」というユニークな関係の根拠つまり神ご自身の意図のことです。神は初めから、「人間の愛など限界があるから、離婚も仕方ない」とお考えになったのではありません。神のご意志は、「二人は一体となる」です。それが「初めから」の神のご意志なので、人間は引き離すことはできないと聖書は言うのです。
 「二人は一体となる」に、神のどんな御心が表されているのでしょうか。使徒パウロがエフェソ5章で、妻と夫に対する指示・勧めを語っています。そこで創世記2章の言葉を引用します。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。そして、「この神秘は偉大です」と言うのです。神秘は、「秘められた計画」とも訳されるのですが、それが何を表しているのか。パウロは「キリストと教会」だと言います。
 男と女の中でもユニークな夫と妻という関係によって、神は「キリストと教会」、キリストと私たちの特別な関係を表そうとしておられる。ここに、神の「初め」のご意志があります。神の御心は、私たちが永遠の命を得る救いとその完成です。キリスト者はすでに救いに入れられて生きていますが、私たちの行き先に救いの完成が約束され用意されています。それはどういうかたちで現れるでしょうか。教会は、キリストの花嫁とか妻と呼ばれます。夫であるキリストは、私たちを花嫁となさり、妻として迎えてくださる。それが聖書が語るヴィジョンです。私たちはキリストとの結婚によって「一つ」とされ、キリストと同じ姿、同じ栄光に入れられます。ヨハネ黙示録に語られるように、着飾った花嫁が小羊キリストの妻として迎えられるのです。こうして私たちの救いが完成されます。
 黙示録ではキリストはただの小羊ではなく、「屠られた小羊」と言われます。犠牲の小羊として十字架で肉が裂かれたキリストです。イエス様は小羊として屠られる。その決意をもってユダヤに行かれました。エルサレムで犠牲の小羊として屠られるイエス様は、私たちを見て言われるのです。人が女(イシャー)を見て叫んだ言葉。「ついに、これこそ、私の骨の骨、私の肉の肉!」。それほどに主は私たちと一体となることを求めておられます。