人の手に落ちる神
説教要旨(8月23日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 26:47-56
牧師 藤盛勇紀
ついにイエス様が逮捕されてしまいます。ユダの裏切りによりイエス様は敵の手に落ちます。他の福音書を見ると、祭司長や長老たち、神殿守衛長や千人隊長とその手下らの一群が、武装して来ました。イエス様の側は僅か12人。あっけなく事は終わります。ある弟子(ペトロ)が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかって耳を切り落としますが、ペトロはただ怖かった。恐れからの蛮勇です。
ここで、有名な言葉が発せられます。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。戦争や暴力について論じられる時、よく引かれる言葉です。しかし、主は一般的な話をしているのではありません。「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」。つまり、「人がいかに多くの兵力を集めようと、私にはそれを凌ぐ戦力がある。私の父は万軍の主だ」と言われるのです。ただ、「それでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。主が言われたことは、聖書の言葉、神の御心はこの地上にどう実現されるかです。主が世に来られたのは、父なる神の御心をこの地上に現すためです。神の御心は、「神に背き、神に背を向けて生きる罪人を救う」こと。そのご計画が聖書全体に示されています。そしてその成就が、イエス様の働き、言葉、その存在と出来事です。
神の御心は、剣すなわし人間の力によっては実現されません。神のご意志は、人となられた御子イエスに現されます。この方を捕らようとする人々は、明確な強い意志をもって迫りますが。主は彼らに言われます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか」。武装して来た人々は、イエス様の力を恐れています。だから何をするかわからない強盗でも捕らえるように、剣を持って武装し、多くの勢力で押さえ込もうとしたのです。
しかし、イエス様においてご意志を世に現される父なる神は、そうした人間のような考えや力を、お捨てになったのです。だから、主は剣を取らず、剣を納めさせ、あっさりと捕らえられ、人々の手に落ちたのです。
「必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。イエス様のご意志は父なる神のご意志であり、神の決定です。それが地上でのイエス様の運命となります。そのために、イエス様は人として世に生まれ、そのためにイエス様はあらゆる人々に捨てられ、殺されるのです。この神の決定は、イエス様お一人だけがご存知です。その道をイエス様はお選びになっています。
このイエス様の逮捕という出来事、その中で弟子たちには裏切られ、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ出してしまった」。この出来事を貫いて現されているのは、私たち罪人を見捨てずに救う、神の愛です。このあっけないイエス様の逮捕劇も、神の愛の出来事です。「必ずこうならなければなない」と決意されている、神の愛のメッセージなのです。
主はご自身を示しながら、こう言っておられるのです。「私は剣を取らず、人に裏切られ、愛する者にも裏切られ、見捨てられて人の手に落ちる。人々のいいように扱われ、馬鹿にされて唾を吐きかけられ、鞭打たれてボロ雑巾のような体を晒して、十字架に血祭りに上げられて死ぬ。私は、そのようにして、あなたがた罪人を愛する」。
この主の愛は、ユダに対する不思議な言葉にも表されています。「友よ、しようとしていることをするがよい」。主は初めから全てをご存知です。自ら選んだ弟子の一人が裏切る。「御一緒になら、死んでもよいと覚悟しております」と豪語した弟子たちも皆、見捨てる。こうして主は、人の手に落ちてしまいます。しかし、この裏切り者の弟子たちの方が皆、神の愛の御手の内に落ちたのです。
ユダの企みは成功します。それさえも、父なる神は、「神に背き、神を捨てる罪人をどこまでも愛し救う」という決意のために、ご計画に取り込んでしまうのです。ユダはこの後、たった一人で後悔し、自分を見捨てないお方を知らないまま、自分の存在に自分で決着をつけてしまいます。それは神の望まれることではありません。主に背いても、裏切っても、そんな自分が神の愛のご決意の内に取り込まれていることを知る人は、幸いです。