私はあなたを見捨てない
説教要旨(6月22日 朝礼拝)
創世記 28:10-22
牧師 星野江理香

旅の途上で野宿する青年ヤコブは、独り、荒れ野の石を枕にして眠っています。それは彼が起こした事件の結果、今風に言うところの「自己責任」の結果でした。
当時の慣習や制度のため、双子の弟と定められたヤコブに「長子の特権」はありませんでした。そのため「創世記」第25章に見るように、奸計を用いて双子の兄から「長子の特権」を奪います。さらに第27章に詳しいように、父イサクを騙し、一族の長となる者に受け継がれる神様の約束の祝福も奪ってしまいます。事態に気づいた父イサクは、騙された驚きや怒り以上に神様への畏れの無いヤコブの仕業に「激しく体を震わせ」ます。そして、あらゆる権利を奪われたエソウが、ヤコブを殺そうとしていることに気づいた母リベカにより、ヤコブはエソウの手が及ばないほど遠いリベカの故郷ハランへ、「花嫁探し」という大義名分の旅に出たのでした。
鉄道も飛行機もない時代の旅は命がけの危険なものでした。しかもそれは実質的に兄から逃れるための逃避行。それは世間知らずの若いヤコブに、どれほど過酷なものであったでしょう。しかし、それまでのヤコブは、自分の上に注がれている神さまのご慈愛と御憐みに気づくことができませんでした。それよりも、自己の内なる欲求を満たすこと、不遇と不満を強いる世の理に、見えない拳を振り上げて抵抗することに心が向いていたようです。その結果、ヤコブが起こした事件は、彼の承認欲求を満たすどころか父イサクを傷つけ、兄エソウを激怒させ、一族じゅうをがっかりさせることになりました。全てを手に入れようとして、ほんとうに欲しかったものは手に入れられず、ヤコブは独り星空の下、孤独と絶望の中で寝入ったのでした。
ところが、そのヤコブの夢の中に美しい神様の世界と地上とを天使たちが上下する様子が与えられます。目に見えない階段で自分と神さまの世界を結んでくださる神さまの深い憐れみを、ヤコブは夢に見せていただいたのでした。そして夢の中、神様のみことばがヤコブの奥深い所に直接に語りかけられました。
「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。
孤独と絶望の中、ヤコブはこの神様の言葉を聴きました。神をも畏れぬ事件を起こして家族にも一族にも神様にも見放されたと心沈み後悔するヤコブに、なお神さまは決してお見捨てにならないと明言されたのでした。但し、それは神様が人間の非道や罪に甘いということではありません。神様は罪は罪として憎み裁かれます。しかし、それは、愛する者自身を憎むことと同じではありません。そして、だからこそ、神さまは、贖い主なる主イエス・キリストをこの世に与えてくださったのです。
神様はご自分が愛する者を自由に愛される御方です。自由な御心のままに真実に愛されます。一人ひとりを他に気にかけるものが無いかのように愛してくださるのです。そんな神様が私たちにお望みになるのは、何よりご自分をのみ神として信じて、二心なく神さまを愛して生きることです。
どんな劣等感も優越感も能力もこの世での立場や身分も関係ありません。独りになってはじめて自分とも自分の罪とも向き合ったヤコブは、神様を畏れず蔑ろにした自分をさえお見捨てにならない神様に、真実に出会うことができました。そして、この神様との出会いのゆえにその地を「ベテル」=神の家と呼び、また「天の門」とも呼んだのでした。
この世的価値観や忙しさにかまけて神様を見失いがちな私たちですが、神様は見守って待ち続けてくださいます。そして、より多くの人々に救いをもたらすため、主イエス・キリストというみ国への「門」をこの世に与え、けっしてお見捨てになることのない深い愛と憐みへ、今も私たちを招いてくださっているのです。