その一人のために
説教要旨(9月7日 朝礼拝)
マタイによる福音書 18:10-14
牧師 藤盛勇紀

迷い出た一匹の羊をどこまでも捜しに行く人のたとえを話。これは、弟子たちの内にある議論が起こっていた時になされました。「いったい誰が、天の国でいちばん偉いか」(8:1)という子供じみた問いですが、人と自分を比較する、よくあることです。主は幼子を彼らの真ん中に立たせましたが、人との比較で「自分はどんな位置に付けているのか」などと、幼子は考えません。しかしいつの間にか、常に周りを見て、周りと比べながらでないと生きられなくなっています。
あなたは、自分が迷い出た羊だと思いますか。それとも「私はちゃんと主のもとにいて、み言葉を聞いています」と思うでしょうか。あるいは、「主が失われた羊を捜しに出かけていたら、私は自分に必要な牧草は自分で見つけて待っています」と思うでしょうか。人それぞれでしょう。しかし、誰にでも共通していることがあります。自分が今どんな状況にあったとしても、結局「私って何者なのか。何のために生きているのか。なぜいま私はこうなのか」、分からないまま生きていることです。古代の神学者も、人は自分に最も近い自分自身のことについて何も分からないまま走っている、と言いました。取りあえず走ってはいるけれど、迷っているのです。
かく言う私自身、取りあえず牧師らしい顔をして、それなりに正しいことも言い、それなりに働いてもいると見えるかも知れません。しかし、「らしさ」とか「正しさ」などというのは、取り繕ったり装うことができるのです。私たちは、人には絶対に言えないことや、墓場まで持って行くものを抱えています。しかし、それらの全てを知っておられる方の前に生きているのです。そう思うと、私たちは皆迷い出た羊です。ふだんは一人前に「自分が食べる牧草くらい自分で見つける」と思っているけれども、自分に本当に必要なものって何なのか、それも分からずに、あっちに行きこっちに行きして、人知れず途方に暮れてメーメーと鳴いている羊なのでしょう。
でもイエス様は、そんな私たち、そんなあなたを知っておられます。あなたの神は、あなたがどこでどう迷っているかなど知っています。迷って、悩んで、情けない声を上げて泣いているのを知っておられます。そしていつもあなたのそばで、あなたの名前を呼んでおられる。そういう仕方であなたを捜しているのです。羊飼いは一匹一匹の羊の声を知っていて、一匹一匹に名前を付けていました。主があなたの名を呼んでおられることに、あなたが自分で気づいて、振り返ってくれるまで、主は呼び続けてくださっています。「主よ、あなたが私を探してくださっていたんですか」と気づいた時、主は「ああ、ここにいたんだね」と言って、喜んであなたを背中に担いで行ってくださる良い羊飼いです。そして、主はその一匹を見つけて、喜ぶお方です。あなたを見つけた主が喜びに満たされるのです。
ルカ福音書15章に同じ話があります。続けて、1枚の銀貨を捜す女の話、そしてあの放蕩息子のたとえ話です。放蕩息子は自分から父の家を出て行きます。父親は捜しに出て行きませんが、放蕩の限りを尽くしている息子をずっと待ち続けていました。だからある日、息子が惨めな姿でこちらに向かって来たとき、父が遠くから息子の姿を見つけて、父の方が走り寄って、息子の首を抱いたのです。
どの話も、失われた1匹、1枚、1人を、捜し続け、待ち続ける人の話です。「待ち続けているあなたの父なる神の話」なのです。放蕩息子の話なら「私のことだ」と思う人が多いでしょう。私たちはあの息子のように、自分から神から離れて神から自立し、「神なんかいなくたって私の人生だ。自分でやっていく」と言っている人間ではないですか。
しかし、あなたが気づいて主に振り返って、「主よ」と祈る時、主はいつでも「よく気づいてくれたね。よくこの私に祈ってくれた」と喜んでくださいます。あなたが振り返ってくれたことが、主は嬉しく誇らしいのです。
この1週間、迷い出た羊のような、放蕩息子のような歩みだったとしても、神のことなど全く思いもしなかった1週間だったとしても、あなたが気づいて、思い出して、主のもとに帰ろうと思って来られたのなら、主は、「私はずっとあなたを捜していたよ」と、あなたを担いで、喜んで歩いてくださいます。