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平和を告げる使者

説教要旨(11月24日 朝礼拝)
マタイによる福音書 10:1-15
牧師 藤盛勇紀

 新約学の先生がギリシャで電車に乗った時の話をされました。「電車が参ります。ご注意ください」というアナウンスにイエスのお言葉を聞いたというのです。主は「神の国は近づいた」と言われた、あの「近づいた」という言葉です。振り返ると、電車がすぐ近くに迫っていた。神の国の接近というのは、こういう迫りなのだと。神の国の到来の告知は、切迫した告知です。原文でも、「近づいた(来ている)」が最初の言葉です。
 直前の箇所に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」とあります。しかし、この知らせを告げるべきユダヤの宗教指導者たちは、権力と結託したり、宗教者らしく振る舞って人々の歓心を得ることばかり考えている。だから、到来している神の国、神のご支配を、神の民が知らないのです。そんな飼い主のいない羊のような民を主は深く憐れんで、神の国の福音を宣べ伝えたのです。
 そして、主は12人を選んで使命をお与えになりました。マタイはここでだけ、弟子たちを「十二使徒」と言います。主は彼らを派遣して何をさせるのか。それは何とイエス様と同じ働きです(8節)。大変なことです。使徒たちは言わばイエスの分身。そして「使徒や預言者という土台の上に建てられ」た私たちも同じです。欠けた器でありながらも、主から遣わされ、この死ぬべき体を通してイエスの命が現される器です。
 ここでは、遣わされた者たちに委ねられた使命に注目します。まず、家に入ったら「平和があるように」と挨拶せよとあります。今日でもイスラエルの日常の挨拶は「シャーローム」です。「平安」とも訳せますが、これは祝福の言葉でもあります(民数記6:26)。
平和を告げる。しかし、本当の平和がどこにあるでしょうか。むしろ、私たちは平和が失われている現実ばかり見せられています。「祝福」と言っても、悲しみや失望、怒りや憎しみを覚えることが溢れています。
 それでも私たちは、そんな世のただ中に、平和を告げ、祝福を宣言するものとして、世に遣わされているのです。それを語っても、人が喜んで受け入れてくれるとは限りません。本当に平安が必要な人が、平安を受け入れるとも限りません。平安を告げる言葉を、聞いてくれないことの方が多いでしょう。
 私たちは良き知らせ・福音を携えて世にあります。本当に「よい」ものとは何か。使徒たちは、イエスご自身から権能を授けられましたが、それを行って、そこに何が起こるのでしょうか。
 ペトロが初めてのキリスト告白をした時(マタイ16:13~)、イエス様は「天の国の鍵を授ける」と言われました。それは「罪の赦し」です。イエス様を憎む者たちは、それは神にしかできない、と反発しましたが、その通りです。その罪の赦しの権威を、主は弟子たちに委ねたのです。
 「あなたの罪は赦された」と、キリストにしか宣言できないことを、私たちは委ねられています。神は私たちを本当に赦しておられ、新たに生まれた神の子とし、生かし用いて、神の愛と憐れみと力を現し、神ご自身の「命」を現してくださいます。その意味でも、私たちは世にあって、言わば神の分身なのです。
 これを知ったならば、私たちは死んでも生きます。イエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)。これは葬儀の時いつも招きの言葉として読みます。いったい誰が信じるでしょうか。しかし主は問われるのです。「このことを信じるか」と。私は信じました。だから悲しみが支配するただ中で、私も問うのです。「このことを信じるか」。ここにも、平安が来ているからです。
 神の国は来ている!目で見る現実に囚われ、埋もれている場合ではない。神があなたに来ている!だからそっちでなく、向き直ってください!死んで終わるのではない命を与えてくださる主がおられます!と。
 神は私たちとすでに和解しておられます。それはただでいただく恵みです。だからイエス様はここで言っておられます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。