捕囚の出来事
説教要旨(7月26日 朝礼拝より)
イザヤ書 43:16-20
牧師 小宮一文
私が神学生だった頃、指導牧師から「牧師になってから『疲れた』『忙しい』は言うな」と言われました。いまも心に留めているのですが、それはただの心構えではなく、そこには何らかの真理があるように後になって思うようになりました。「疲れた」「忙しい」、「こんなにがんばっている」でもいいです。こういう言葉は見えない力を持ちます。「疲れた」「自分はこんなにがんばっている」というのは聞く人に暗に取引を仕掛けます。そして返礼を強います。「疲れた」「忙しい」、このことに心配や称賛などを返さない人には感情的な負債を負わすことができます。神さまに対しても、人に対しても、あらゆることが損得、取引でしかなくなる。そのことに気をつけなさい、という言葉だったのではないかと思っています。
「あなたにこんなにしてあげたのだから何か返せ」というのは取引です。捕囚の前のイスラエルは「これだけ豪華な祭儀をしたんだからわれわれを守れよ」と神さまに返礼を強いていました。神さまはそれを嫌がりました。でもそういう取引で支配される関係というのはだれでも嫌です。「こんなにやった。だから何か言えよ」。称賛を強制されるとき、心のどこかが腐る感じがします。イスラエルはそれを神さまに強制しました。北と南、両方の国が滅びるまでやめませんでした。そして滅んだとき、自分たちが拝んでいたのは神ではなく偶像だったことに気づきました。
バビロンに捕囚として連れて行かれたとき、イスラエルの人びとが思ったことは「神が弱くてわたしたちを救えなかった」「豪華な儀式が足りなかった」ということではありませんでした。「わたしたちが神を捨てたのだ」ということでした。そのとき神への信仰も断絶しました。それは不信仰とは違います。自分たちの生活の中に神の働きを見る。そのどんなことも勝手な勘違いであり、やることすべてが恥に思える感覚です。だから祈ることができません。祈ることのできない民に神が語ったのがこのイザヤ書の言葉です。「思い出すな」と言います。恥を。
イスラエルの人びとは祈ることができないのに神さまは何か新しいことを与えようとします。それを通して神さまは「あなたとは取引きしない」と言っているように思います。「あなたの取引にはわたしはもう乗らない。あなたの『これだけ祈って立派な儀式をささげたのだから返せ』ということにわたしはもう付き合わない。あなたとわたしの関係はそのような取引ではない」。繰り返しになりますが、神さまは祈る人ではなく、祈ることができなくなった人に語っています。「あなたの祈りに応えてするのではない。わたしが新しい未来を与えたいから与える」。
二年前、ある新聞で「かあさんのせなか」というコラムがありました。そこに小原ブラスさんという人がその人のお母さんについて語っていました。お母さんはロシア人でもともとロシア人のお父さんと結婚していましたが、小原さんが小さい頃に離婚します。お母さんは舞踊団の歌手をしていて日本に公演に来たとき、いまのお父さんと知り合って結婚します。気性の激しい人だったようで、生活や風習で合わないことがあるとよく「ロシアに帰る」と言って怒ったそうです。
私が注目したのは次でした。お父さんは会社を経営する人でした。しかしあるとき経営していた会社が倒産します。そのとき、もうそれまでの生活はできないからお母さんに「(わたしと)離婚してかまわない」と言ったそうです。しかしそのとき小原さんのお母さんはこう言ったそうです。「あなたがお金持ちだから結婚したと思っているの」。そして怒りました。
教会で結婚式を見るとき、なぜかいい気分になります。そこには取引や損得を超えた何かがあるからだと思います。そして「人は損得を超えて生きることができるのだ」ということを教えてくれるからだと思います。
捕囚の地でイスラエルはそのような神と出会いました。「あなたが何を持っているからとか、何ができるからとか、そういうことで好きになったと思っているの」。こういう愛に触れたとき、生きる以外に選択肢はなかったと思います。