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世の初めからの祝福

説教要旨(7月12日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 25:31-46
牧師 藤盛勇紀

 主が人々を右と左に分ける、一般に「最後の審判」と呼ばれる話です。自分はどっちなのかと思うと、恐ろしさを感じます。主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われます。最も小さい者、しかも、ある一人にしたこと。人の目に止まるような善行ではない。「私たちは、いつそんなことをしましたか」と自分でも覚えていない小さな事を、主は「あなたは私にしれくれたのだ」と取り上げてくださいます。
 では左側の人は悪人なのでしょうか。「主よ、いつ…しなかったたでしょうか」。もちろん、しなかった時もある。しかし、「もしその時、その人がイエスだと分かっていたら、当然してあげましたよ」ということです。それはそうだと思います。だから、左側の人たちは私たち自身のことでしょう。助けを必要としている人の傍を何度通り過ごしたことか。その時、そこにイエス様がおられたら、私たちは悪魔と共に永遠の火に投げ込まれてしまうのか。だとしたら、人を見るときいつも、「そこに主がおられるかも知れない。見逃してはならない」「あの人は『小さい』人か? あの困っている人はイエスではないか?」と常に緊張することになります。主は、そんな恐れと緊張の人生を強いておられるのでしょうか。
 では、「正しい人たち」はどうか。彼らも「主よ、いつ…したでしょうか」と言います。この人たちも、人を見てそれがイエス様だとか、イエスがおられるなどと思ってしたわけではなかった。困っている人をいつでも助けたわけでもない。ある時、ある一人に、小さなことをしただけです。主は私たちに、何かの行いを要求しておられるのではありません。主は、私たちに約束をしておられるのです。
 主は右側の人たちには、「祝福された人たち」と言い、左側の人たちには「呪われた者ども」と言われました。右と左とは「祝福」と「呪い」です。「善人」と「悪人」の峻別・選別ではないんです。
 この「正しい人」とは「善人」ではなく「義人」、神に義とされた人です。しかし聖書は言います。「正しい者はいない。一人もいない」。だとすると、全員が永遠の罰なのか。
 主は言われました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。弟子たちは困惑したでしょう。「律法学者やファリサイ派の人々の義よりも優った義なんてあるのか、あるとしても俺たちは絶望的だ」と。
 私たちも、罪を犯しながらでしか生きられません。パウロはローマ7章で「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と言います。自分の内になお罪が住んでいるからです。そして嘆きます。「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。罪と死の法則。罪の報いは死です。
 しかし、そこで言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。善を行おうと思っても悪を行ってしまうのに、なぜ感謝なのか? 「キリスト・イエスに結ばれる者は、罪に定められることはない」からです。私たちは自分の行いや正しさ、自分の義によって神の国に入って命を得ることはできません。ここをファリサイ派の人々は思い違いをしました。彼らは、自分で自分の義を立てようと頑張ったのです。
 しかし私たちは、私のために死んで蘇られたイエスを信じました。パウロはローマ5章で語ります。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」。
 この恵みの事実を、ただいただくのです。 「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」。これは、主を信じて、恵みをただ受けただけの人への、主の約束です。この祝福は天地創造の前から用意されていたのです(エフェソ1:3-6)。