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神は生きている者の神

説教要旨(3月15日 主日礼拝より)
マタイによる福音書 22:23-33
牧師 藤盛勇紀

 ここで「サドカイ派」の人々が持ち出してきた話は、人は死んだ後どうなるのかということです。サドカイ派は神殿で仕える祭司の一族が中心で、貴族階級でもありまし。しかしサドカイ派は「復活などない」と言っていた人々です。彼らがイエス様に問うたことは、申命記25章にも規定されているイスラエルの習慣を元にした問いです。ある人が子供がないまま死んだ場合、その弟が兄嫁と結婚しなければならない。そのようにして兄の家系を残すという制度です。ただ、その弟も次々と死んで、その嫁が最終的に7人の夫の妻となった場合、復活した時には誰の妻となるのか、という話です。こんな理屈をこねるような問題でサドカイ派とファリサイ派は論争し、それぞれに答えも用意しているのです。これはもう、ただの論争のための論争です。
 主は言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」。サドカイ派は民衆に対する宗教指導者層です。ところが主は、あなたたちは聖書も神の力も知らないと言うのです。彼らは「聖書をよく知っている」とは言えても、「神の力」を知らないのです。
 「神の力」を知るとしたら、どのように知るのでしょうか。神は生きておられます。その力を知るというのは、実際に自分がその力に触れられることによります。しかし、神の力は私たちを打ち叩くような力で触れるのではありません。神の力は恵みであり愛です。驚くべき恵みと愛に触れられる経験です。
 パウロはこう言いました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)。「救いをもたらす神の力」は、私たちへの良き知らせ「福音」です。その内容を一言で言えば「十字架の言葉」です。1コリント1章にこうあります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。
 「十字架の言葉」とは、イエス様の十字架の死と復活に現された神の愛と恵みを伝える言葉。それを信じた人が救われるという事実こそ神の力です。神が生きておられるので、私たちは触れられるのです。神様は、生きて私たちに働きかけ、迫り来るお方です。「聖書を知る」ということは、聖書が証ししているこのお方の力に触れられ、出会い、交わりをいただいていることです。
 イエス様は少々不思議なことを言われました。「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。
 なぜそれが「死者の復活」のことなのか? アブラハムは信仰の父。その子イサクもまたその子ヤコブもイスラエルの祖です。イエス様の時代から千数百年も昔の父祖。あのモーセから見ても何百年も昔の祖先ですが、神はモーセに現れて言われました。「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」。神は、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だった」と言われたのではありません。でも、分かるようで分からないでしょう。大事なことは、この神が生きておられる事実です。
 葬儀の時にもよく読む詩編139編に、こうあります。主は「前からも後ろからも私を囲み」。「前からも後ろからも」とは位置の前後でしょうか。この詩人は、自分が生まれる前のことを語るのです。人は死を考える時、なぜか死の「後」のことばかり思います。生れて死ぬまでが生で、死の後のことを恐れるならば、なぜ生れてくる「前」のことを恐れないのでしょうか。たとえば、死の後が無だとしたら、まだ生まれていない時も無です。なのに今、私はある。私たちが今、生きてこうあるなら、すでに無は克服されているのです。そして、私たち存在させ生きる者としてくださったお方が、生きておられます。
 イエス様は、死んでよみがえられたお方です。私たちはこの方にあって、生きて、死んで、無に帰すのではなく、「死んでいたのに、無だったのに、見よ、生きている」と言えます。この方を知って一つとされることが、聖書が証しする活ける神を知ることです。