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注ぎ出す愛

説教要旨(7月19日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 26:1-13
牧師 藤盛勇紀

 誰も思いもしなかったイエス様の死が目前です。そして、これまた誰も思いもしない異常なことをイエス様にした女がいます。主は言われます。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」。弟子たちには、何のことか分かりません。とくに「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる」とは何か。
 今の私たちは分かっていますが、世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所で、この人のしたことも記念として語られているでしょうか。そういうこともあったな、と思い起こされるくらいでしょう。なぜでしょうか。この女がしたことが余りにも異常で無駄なことだからでしょう。意味が分からないのです。
 「この人のしたこと」とは、何でしょうか。誰の目にも明かなことは、彼女は《全くの無駄をした》ということです。非常に高価な香油が無駄に流れてしまった。これを見た弟子たちは、当然驚きます。「えっ!いったいどうした?」と思う間に、香油はイエス様の頭を伝って流れてしまう。驚きと同時に怒りが起こります。「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。その通りです。そのお金があったら、どれほど多くの人々を助けることができたか。この女は、他にいくらでもできた尊い働きを無にしてしまったのです。誰が見ても馬鹿なこと、全く愚かなことです。
 ところが主は、この無駄で愚かな行為を、何よりも喜ばれました。イエス・キリストとその御業が宣べ伝えられることと、この一人の女がしたことは、いつでもどこでも並べて伝えられるべきなのです。この女がしたことは、イエス様がご自分の肉を裂いて血を流す、その究極の御業を鏡のように映し出す行為でした。イエス様は最大級の賛辞をもって、喜んでこの女のしたことを称えます。
 では改めて、この人は何をしたのか。無駄に注ぎ出したのです。香油は単に高価だというだけでなく、女性にとっての宝です。自分が嫁ぐ時の全財産でもある。しかしこの女は、文字通り何の計算もなく、それを無駄に流してしまった。当然の思いも計算も無く、何の効果も考えずに。人々には、「何と愚かな…」としか思えない。よく言えば純真無垢。その心で彼女は何をしたのか。自分の愛を重ね合わせて、イエス様の愛を写したのです。
 でも、なぜこの人はイエス様の愛が分かったのでしょうか。なぜそれに応えるような行為をしたのか。分かりません。計算でもなく、理屈でもない、愛だからです。
 この後、最後の晩餐の夜となり、イエス様は多くの人のためにご自分の肉を裂き、血を流して死にます。しかも、それを誰一人として理解する者はいません。あのペトロも、イエス様を三度つまり完全に否認します。弟子たちは一人残らず裏切り者となり、誰も彼もがイエス様を見捨てたのです。つまり、主は全く無駄に、自分の血を流し、命を注ぎ出してしまわれます。この女のしたことは、その主の愛を映し出し、重ね合わせる行為となった。なぜかは分かりません。しかしこの女は、主が注ぎ出しておられる愛、無駄に流され、注がれてしまう愛に、触れたのです。
 そして、この愛に触れられた者も、自分を注ぎ出してしまうのです。なぜか分からないが、無駄なことをしてしまう。愛は、馬鹿なこと、無駄なことをするのです。人には「愚か」としか思えないことをしてしまうのです。理由なんか分かりません。理屈でも計算もない。しかし、愚かとしか言えない愛に触れられたら、反応してしまうのです。
 パウロは「十字架の言葉は愚かなもの」と言いました。神の御子メシアが、愛する者に裏切られ、人々に捨てられて死ぬ。こんな愚かなことはありません。それを語る「十字架の言葉」は愚か。まして、それを証言し宣べ伝える宣教は、愚かの極み。しかし「神は、宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうとお考えになった」と言うのです。
 イエス様は、ご自分の死の後を先取りして見ておられます。この女も自分のために命を注ぎ出してしまう主の愛を見ています。だから、無駄に注ぎ出してしまう。これは言わば、互いに自分を注ぎ出してしまう出来事、愛の交わり、愛の交換です。死に向かっているイエス様にとって、本当に喜ばしい愛の交わりがここに現れ出たのです。