神の国は閉ざされず
説教要旨(4月19日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 23:13-24
牧師 藤盛勇紀
イエス様の律法学者やファリサイ派に対する非難の厳しさは頂点に達し、「あなたたち偽善者は不幸だ」と畳みかけられます。「不幸」は、「ウーアイ」という感嘆詞。言葉にもならない嘆きです。「偽善者」とは、悪い心を持ちながら善人ぶっている人のことでしょう。だから嫌みに見えたりします。見透かされるのです。しかし、ここでの偽善者はちょっと違います。人に見抜かれるような偽善ではなく、誰が見ても、あの人は立派だと見える善人なのです。しっかりと信仰生活を建て上げ、真っ直ぐ歩んでいる。他人はもちろん自分でも「私は本当にダメな、どうしようもない罪人だ」などとは微塵も思ってないし、誰も気づけず、見抜けません。彼らは「海と陸を巡り歩く」海外宣教師のような働きまでします。
ところが、その彼らが「天の(神の)国を閉ざす」、しかも神の国に自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせないのだと。神の国とは神の支配です。今この世界を、私の人生、日々の生活を、生ける神が支え導き、様々な出来事を経験させ、私を生かしておられる事実、神の命に生きていることです。
イエス様は「あなた方は偽善者のようであってはならない」と教えられました。祈る時も美辞麗句の長い祈りはやめなさい。「あなたが祈る時は」、一人で「あなたの父」に祈れと。あなたの父との交わりを持ちながら生きるのです。パウロも言ったように、何事につけ、あなたの父、主に打ち明け、求め、主に問い、問われながら生きること、あなたの神を神として生きていること、それが神の国です。
律法学者やファリサイ派のように、人の目に完全な者のように生きることとは全く違います。なのに私たちは、人の言葉や人の目のために生きてしまっていることがあります。人に支配され、神の国を失っている。「あの人が私にこんなことを言った」「あの人たちに誤解されている」「私を見てくれない」、ああしてくれない、こうしてくれない…。人に認められないと生きる意味も感じられない。もう神様の眼差しもない世界、神がいないのです。私たちは皆、偽善者、ものの見えない者になってしまいます。礼拝しながら罪を犯し、伝道に励みながら神を捨てることがある。まったくの不幸、禍いです。ウーアイ!
イエス様の言葉は厳しく否定的な言葉ばかりで終わります。しかし、一つ積極的な言葉があります。23節もまず裁きの言葉があります。偽善者は細かいものの十分の一をもキッチリ献げる。しかし主は、あなたたちはなぜそうしているのか、分からなくなっている、と言うのです。献げものをも規定している神の律法が求めていることは、「正義、慈悲、誠実」だと。この「正義」は「裁き・判断」、「誠実」は「信仰・真実」という言葉。「慈悲」は「憐れみ」です。「これこそ行うべきこと」だと。裁きも憐れみも信仰も、本来神のもの、神から私たちに来るものです。神の裁きは憐れみに基づいています。神の憐れみは、どんな人をも生かします。そして、私たちは誰もが皆、不信仰で不真実です。しかし、神はどこまでも真実な方です。パウロも、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と言いました(ローマ3:4)。神の真実は神の愛だからです。「実にキリストは…不信心な者のために死んでくださった。…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ローマ5:6,8)。
不信仰で不真実な私たちを、神はご自身のものとして憐れみ、どこまでも愛し通された。だからイエス様は、誰からも理解されず最愛の弟子たちからも見捨てられても、御自分を犠牲として献げて、愛し抜かれました。
公正な裁きも憐れみも信仰も、みな失せて、神の国を失った不幸な人々、不真実な神の民の中に、深く沈むように入って行って、転落するように落ちて行かれました。そして十字架の死に至るまで、従順にご自身を献げた。私たちは、この方に迫られ触れられるところで、あの山上の説教の「幸いなるかな」という祝福を知るのです。「あなたたちは不幸だ」と言われる、まさにその場で、私たちの命となられたお方の「幸いだ」との祝福を聞くことができます。その信仰によって、閉ざされていた神の国を見る者とされるのです。