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おはよう、もう恐れるな

説教要旨(4月5日 イースター礼拝より)
マタイによる福音書 28:1-10
牧師 藤盛勇紀

 安息日が明けた週の初めの早朝、イエス様に従っていた女性たちの内、マグダラのマリアともう一人のマリアがイエス様の墓に向かいます。イエス様は、遺体に施す処置もないまま墓に納められて、封印された上ローマ兵が監視しています。それでも何とかせめてもの措置をして差し上げたかったのです。
 墓に行ってみると、恐ろしい出来事に遭遇します。番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。しかし天使は彼女らに言います。「(あなたたちは)恐れることはない。あの方は復活なさったのだ」。されに言います。「急いで行って弟子たちに告げなさい」。いったい、何がどうしてこんなことが起こっているのか。「恐れるな」と言われたって死ぬほど恐ろしい。しかし、天使たちの言葉を聞いた彼女たちは「恐れながらも大いに喜んで」走って行きます。恐れているのか喜んでいるのか、混乱状態。でも、「あの方は復活された」という言葉が、不思議な喜びを引き起こしています。混乱したまま走っていると、いきなり目の前にイエス様。「えっ!イエス様?」さらに大混乱の女性たちに、主はいきなり、「おはよう」。「喜びなさい」という言葉で挨拶の言葉として使われます。朝は「おはよう」、昼なら「こんにちは」、単に「やあ」。別れの時の「それじゃ」「ごきげんよう」。
 復活の主の最初の言葉が、「やあ、おはよう」。言われた方はあっけにとられます。「ちょっと待って。何で?どうして?」。でも紛れもなくイエス様。彼女たちは思わず主の足を抱きます。でも、何が何だか分かりません。いや、彼女たちも聞くには聞いていたのです。主が弟子たちに語られた三度の予告。自分はエルサレムに行き、人々に捨てられて苦しみを受け、殺される。しかし三日目に復活する。弟子たちは全く理解不能でした。なぜメシアであり神の子である主が人々から捨てられ殺されるのか。むしろイエス様はエルサレムに上って、王として支配するはず。このお方が殺されるなどということはあり得ない。そこで、「復活」と言われても、耳には入ってもどこかにすっ飛んでいます。
 女性たちの混乱や恐れも当然です。なのにイエス様は、何事も無かったように「おはよう」。あまりにも軽すぎるじゃありませんか。しかも説明など不要と言わんばかりに、ただ「恐れるな」。そして、すぐに「兄弟たちの所に行け」と。あの天使も、突然現れて「恐れるな」。「急いで行って弟子たちに告げなさい」。「確かに、あなた方に伝えましたよ」と。あまりにもせっかちです。しかし、主から聞いた通り行ってみた者だけが分かるのです。
 人間には様々な恐れがありますが、最後の恐れは「死」です。しかしイエス様はその死を破ってしまわれたのです。しかも「やあ、おはよう」と実に軽く。本当に恐れなくてよいからです。死はもはや、軽くいなされるものになってしまいました。
 神に裁かれ、呪われ、見捨てられる本当の死は、あの十字架で御子が引き受けてしまったからです。神が本当の死を死なれた。この方を信じて、この方と結ばれて一つとされた者にとって、もう本当の死はないのです。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25~26)。イエスに結ばれた人は誰も、決して死にません。主にと共にすでに裁かれて死んで、すでに主と共に復活したからです。
 肉体はいずれ死んで大地に帰りますが、その死は古い体との別れです。イエスに結ばれた命はその死によって何も変わることはありません。だから、この地上での死に対しては「やあ!」と言ってやればいいんです。死に対して「じゃあね」と、とぼけてよいのです。死はもう私に何もできないんですから。「死よ、お前の棘はどこにあるのか」と。
 主はこの後、恐れて閉じこもっている弟子たちの所に現れて「平安あれ」と言われました。イエス様を裏切って逃げ、万死に値する裏切り者連中に、いきなり「平安あれ」です。イエス様は、「えっ?」と思う所、思いもしない時、私たちと共におられます。悩み恐れる時にも、「あっ、イエス様、ここにもおられたんですか」と、驚きながらも喜んで生かされるのです。