ホーム | 説教 | 説教(2009年度) | 信仰は聞くことから

信仰は聞くことから

説教要旨( 10月4日 朝礼拝 )
イザヤ書 第52章 7~10節
ローマの信徒への手紙 第10章 14~21節
倉橋康夫

 前段の最後で、<「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」>と述べられ、本日の個所の最初(14節)に、主の名を呼び求めるに至る筋道が三段論法的に、しかもそれを逆から辿って語られます。順序通りには、宣べ伝えられ、聞かれ、信じられ、そして、呼び求めるに至るのです。しかし、それらの一切は、「遣わされる」ことに懸かっている、と言います。<遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。>(15節)、と。遣わす方があって、宣べ伝えるものが託されるからです。
 そこでパウロは、イザヤ書の第52章から引用します。<良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてある>、と。元来<良い知らせ>・福音とは、戦いの勝利、或いは王子の誕生の知らせのことで、使者・伝令がそれを国の隅々に告げ知らせたのです。けれども、イザヤ書では、神が王となられた、神がその支配の力を現された、主なる神に依り頼む者は安全である、と保証されるという知らせのことです。
 このようにして、良い知らせ・福音が宣べ伝えられるのだが、<しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。>、とパウロは言います。パウロの心を悩ませているのは、ユダヤ人たちです。パウロの同胞のユダヤ人の多くが、福音を受け入れようとしないからです。パウロはイザヤ書第53章から引用して、<イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。>、と言うのです。
 扨て、パウロは改めて、信仰が起こされる由来について語ります。<実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。>(17節)、と。原文通りは、「信仰は聞くことから」です。「聞く」とは、自分を虚しくして、しっかり心に受け止めることです。パウロはこのイザヤの預言を示しながら、主キリストの福音が語られる場合に当てはめています。福音が語られ、その声を人々は聞く、ユダヤ人が聞く。けれども、その内容を受け入れることをしない、と言うのです。
 「信仰は聞くことから」と言って、パウロは直ぐに、「キリストの言葉を通して聞くこと」と補足します。ここの<キリストの言葉>とは、主キリストを指し示す言葉、主キリストを内容とする言葉、と捉えることができます。この主キリストの事実、その出来事を聞くことから、信仰は始まる、と言うのです。
 パウロは詩編 第19編から引用して、神の栄光、神のみ手の業が天地に現れているように、主キリストの福音も、世界の隅々に向かって響き渡っているのだ、と主張します。彼らは聞いても、心に受け止めることをしなかった、主キリストの福音によって生きる、方向転換をしなかった、福音によって自分が変えられることを望まなかった、と言うのです。しかし正しく聞く人は、主の十字架の事実によって、自己が打ち砕かれ自らの罪を深く悔い、神の赦しなくしては生き得ない自分を認めることになります。イスラエルはその真相を悟っていない、とパウロは言います。
 しかしながら、イザヤ書 第65章2節により、主なる神は、<不従順で反抗する民に>手を差し伸べ続けていて下さるのだ、とパウロは言います。「父が手をのべて、自分の子をやさしく胸に抱こうとして待っているように」(カルヴァン)。この神のみ手へと繰り返し立ち帰る歩みこそが、他ならぬ私たち自身の歩みです。この信仰の歩みの原点・出発点が、主キリストの言葉を聞く、福音を聞いて打ち砕かれ、整えられ、押し出されるところにあります。「信仰は聞くことから」 常に、主キリストの言葉を聞き、主キリストの出来事に堅く結ばれて、父なる神のみ許に立ち帰りつつ、信仰の歩みを進めて参りましょう。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。

説教一覧(2009年度)

2009.04.05
聖霊の執り成し
2009.04.12
主キリストは復活された
2009.04.19
わたしは知っている
2009.04.26
万事が益となる
2009.05.03
栄光への歩み
2009.05.10
渇いている人
2009.05.17
神が味方
2009.05.24
神の愛に結ばれて
2009.05.31
聖霊を受けた人々
2009.06.07
輝かしい勝利
2009.06.14
もう罪を犯してはならない
2009.06.21
永遠の命を受ける
2009.06.28
あなたの手に渡す
2009.07.05
わたしの確信
2009.07.12
わたしに従う者
2009.07.19
悲しみと痛みの中から
2009.07.26
神の言葉は貫かれる
2009.08.02
神の憐れみによって
2009.08.09
真実なる裁き
2009.08.16
我々はその時
2009.08.23
神に造られた器
2009.08.30
信仰による義
2009.09.06
神の義によって
2009.09.13
あなたたちは自由になる
2009.09.20
心で信じて、口で言い表し
2009.09.27
誇りは増し加わる
2009.10.04
信仰は聞くことから
2009.10.11
神の言葉を聞く者
2009.10.18
神はその民を見捨てられない
2009.10.25
人々の先頭に立って渡る
2009.11.01
勝利を賜る神
2009.11.08
決して死なない
2009.11.15
真実の言葉を話す
2009.11.22
躓きから救いへ
2009.11.29
聞かれない祈り
2009.12.06
神のご計画への信頼
2009.12.13
神の業が現れる(文書なし)
2009.12.20
神の愛が現れた
2010.01.03
神の秘められた計画
2010.01.10
あの人をどう思うか
2010.01.17
今日も生きている
2010.01.24
栄光が神に永遠に
2010.01.31
神の憐れみによる勧め
2010.02.07
なすべき礼拝
2010.02.14
正直に答えなさい
2010.02.21
心を新たにし
2010.02.28
己れを知る
2010.03.07
一つの体の部分として
2010.03.14
わたしに従いなさい
2010.03.21
賜物を生かす
2010.03.28
勇気をもって雄々しく