神と闘う民
説教要旨(5月31日 朝礼拝より)
創世記 32:23-33
牧師 小宮一文
ヤコブは兄のエサウを騙してエサウから命を狙われるのを感じて逃げました。ヤコブはその後、エサウの様子を知るために使いを送りますが、その使いの隊を二手に分けます。どちらかがエサウから攻撃されて殺されても、もう一方は大丈夫なようにするためです。
つまりヤコブにとってはどちらも死ぬことが想定された使いです。自分が死なないように自分の身を守るためでありながら、エサウに誠意を示すことを理由にしてそういうことをしました。
人を騙すことは悪徳です。騙すのはだれかを騙すから騙すと言います。しかし騙すこと、欺くことの本領は他人を騙すことにあるのではないと思います。自分自身を欺くときにその本領が発揮されます。だれかを騙したとき、騙したということに人は良心の呵責を感じます。しかしそれから逃れる方法があります。自分を欺けばいいのです。
「あの人は太っている」という言葉は大体の場合、悪口です。しかしそう言ったことを何かのきっかけで言われた人が知ったとき、言われた人は嫌な顔をします。言った人はそういうことを言った自分をそこに見ます。でもそれから逃れる方法があります。
自分の言ったことは悪口ではなかったと思えばいいのです。「悪口ではありません。あなたをほめるつもりで言ったんです」と。それは相手にというより自分に言い聞かせるための言葉です。そしてそれを本気で信じたとき、罪はなくなります。相手が嫌な顔をしても関係ありません。むしろわたしはほめ言葉を言ってあげたのになぜこの人は喜んでくれないのだろう、と相手の無理解を悲しむことができます。それが自分を欺くこと、自己欺瞞です。
人は欺瞞や卑怯なことに生理的な嫌悪感を覚えます。相模原で障害を持った人たちを殺した事件の犯人は「社会のためになる」といった主旨のことを言いました。社会がそれを自分に求めたのになぜそれを理解してくれないの、ということです。わたしはあなたをほめるつもりで「あの人は太っている」と言ったのになぜあなたはそれを理解してくれないの。
ヤコブは使いを二手に分けたことに良心の痛みを感じなかったと思います。兄のために、兄の性格を考慮して自分は丁寧なことをしているだけだ、と。いろんな理由や言い訳をして自分の悪から目を背けているうちに、自分にちゃんと向き合って生きるということも失っています。ヤコブはほんとうに孤独な人間です。「自分で自分の命を救おうとする者はそれを失う」とはそのような孤独を言ったのだと思います。
普通ならしないことをなぜかヤコブはある川岸でしました。自分の身を守るために何でも先に行かせました。であるなら自分の身を守るためにだれかを置いておくはずですが、このときそれをせず、一人になりました。そこで神と格闘しました。神と出会うのはこういうときなのだと思います。人が神と出会うのは究極的には一対一です。自分を守るほかの何かを置いて神に向き合うことはできません。
ヤコブが腿の関節をはずしたとき、おそらく立てなくなりました。「祝福してくれるまで離しません」と言っていることからしがみついたのだと思います。何かにしがみつくということは手に何かを持っていてはできません。海で溺れかけている人が手に何かを持ちながら浮き輪にしがみつくことはできません。
ヤコブは手のひらを空にしました。ヤコブはこのとき、それまで握りしめていた偽りや欺瞞を捨てたのだと思います。欺瞞を手から離したとき、神と真実のうちに生きることをヤコブは取り戻しました。
自分で自分を救おうとする嘘や言い訳を手放したヤコブに、イエスさまなら「幸いだ」と言うと思います。自分で自分を欺き、悪も人のせいにして自分に目をつむる人生よりも、「わたしは自分に嘘をつかなかった」と死ぬときに言える人生のほうがいいです。神さまはそこへ招いているのだと思います。欺瞞を捨てることは現実に打ち砕かれることも含んできます。しかしヤコブが偽りを手放してボロボロになったとき、神さまはその手を取りました。
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