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故郷で敬われない預言者

説教要旨(5月4日 朝礼拝)
マタイによる福音書 13:53-58
牧師 藤盛勇紀

 イエス様が故郷のナザレに帰って伝道されましたが、一般的な言い方をすれば、失敗でした。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」。イエス様が語られた言葉は、聞く人々に非常に大きな驚きを与えました。その教えは律法学者のようではなく、「権威ある者としてお教えになったから」です。律法学者たちとは違い、主が語る言葉は聞く者を自ずと従うようにさせ、この方の言葉と力によって生きたいと思わせる。この方に捕らえられ、励まされ慰められ、力を受けて満たされる。その驚きは、ナザレの人々も同じでした。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と。
 ところが、ナザレの人々には、それが信仰につながらなかったのです。これまで触れたことのない力に動かされ引き込まれた。なのに信仰にならない。それどころか「人々はイエスにつまづいた」のです。ナザレの人々の、「どこから」という驚きは、イエスの言葉に現れた知恵や力はこの世のものなのか、という驚きです。この世の人から得たとは思えない、神からのものなのか。
 しかし彼らはすぐに思いました。「このイエスは大工ヨセフの息子で、母はマリア。兄弟のヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、そして姉妹たちも皆、我々と一緒にここに住んでいるではないか」。故郷の人々は、イエスその人を幼い頃からよく知っています。ついこの間まで我々と一緒にここで生活していた。なのになぜ今、イエスはこんな力を持って語っているのか。この力はいったいどこから来たのか。その驚きは、彼らの思いを一瞬、上に引き上げました。「神からか、天からか」。しかし次の瞬間、その思いは、またこの地上に落ち、地にへばり付いてしまいました。
 イエス様が告げ知らせていることは、神の国の到来です。神の国は来ている!あなたがたの間に! そして、天の父なる神がどういうお方であるかを示して、「あなたは、あなたの父に祈れ」と教えました。隠れた所で、あなたは、あなたの父と親しく交わるのだ。生ける神の国、その支配はすでにこの地に始まっているのだと。
 イエス様は初めから、天から来たものを告げ、現しておられました。ところが、ナザレの人々は一瞬驚きながらも、すぐに大工の子イエスを見て思います。「このイエスは俺たちの幼なじみだ。あの家に生まれて、父ちゃん母ちゃんのこともよく知ってる。父ヨセフは早く亡くなったが、長男のイエスは仕事を引き継いで母親を助け、弟や妹たちを育てた。俺たちはずっとこのナザレで、イエスと一緒に育った。俺たちが知っているイエスが、なんでこんな偉くなったのか」。彼らは、この世の地平でしか見ようとしません。自分が見て知って経験している領域だけしか見ようとしない、認めようとしないのです。
 しかし信仰は、見えないものを見ます。信仰とは、望んでいる事柄の実質・実体。見えないものの確証・確かな現実です(ヘブライ11:1)。ナザレの人々は自分が見ているものしか見ようとせず、経験したことからしか受けようとしません。この不信仰が、天からのものに対して強烈に対抗するのです。どこまでもこの地上にへばり付いて、おしまい。しかし、信仰は見て知っている地平から引き上げられること、天からこの地を見て、この地に生かされている自分をも見ることです。
 イエス様は、人々がこれまで見えず、見ようとしなかった世界をこの地にもたらすため、神でありながら、あえて人となって世に来られました。この地で塵となって終わるしかなかった人間に、真の命をもたらすために来られました。私たちはこの方に結ばれて一つとされて、神の子として生きるのです。
 私たちはもともと、地に属するものではありませんでした。肉体は地に属していますが、命は神の息吹によって生じさせられました。本来私たちは、天来の者なのです。なのに、天から来られたお方を住まわせようとせず、その頑なな罪は、神の御子を殺します。御子は人々から嫌われ、見捨てられて殺されます。御子はその死をご自身で引き受けてしまい、神の愛をこの地にもたらし、死を破って新しい命をもたらされました。この方に信頼して結ばれる人は、この地にあって、天を故郷とする者として生きます。