人の言い伝えと神の言葉
説教要旨(6月1日 朝礼拝)
マタイによる福音書 15:1-20
牧師 藤盛勇紀

イエス様に対し殺意を抱いているファリサイ派と律法学者たちが、何よりも重んじたのは、「昔の人たちの言い伝え」を守ることです。これは単なる言い伝えではなく、いわゆる「口伝律法」です。「律法」と言えば、まずは旧約聖書のモーセの律法、神の言葉です。やがてこの律法の周囲に、何重もの塀や垣根を巡らすように、膨大な細かな規定が作られました。それは、神から与えられた律法に誤って抵触しないようにと、人を遠ざけるためでした。王国の滅亡とバビロン捕囚という憂き目に遭ったイスラエルは、その悲惨な経験は、自分たちが神から離れてしまった罪ゆえだと分かっていました。だから捕囚から解放された後、今度こそ神の戒めに従って、神の民としての実質を備えた民になろうとしたのです。
そこから作られていった口伝律法は、モーセの律法以上の権威を持って行き、数百年の時代を経たイエス様の時代には形骸化・形式化し、命を失った命令になってしまいます。イエスご自身は律法を破ったことはありませんが、口伝律法をあえて破って見せました。神の戒めは自由と命と祝福を与えるものなのだと、本来の律法の命を垣間見せたのです。
「律法主義」は、形式や外見にこだわって、結果的に神の律法(神の意図・意志)に反するものになります。それは教会にもしばしば起こります。古くからの言い伝えや決まり事がしばしば「伝統」と言われ、本来の伝統を霞ませてしまいます。律法主義は、何をしているかいないかと外見や形に囚われます。私たちは人からの評価や称賛、尊敬や理解を得ることが大事になってします。横を見ながら、「あの人はああした、こう言った」と評価したり批判し合ったりします。
しかし、イエス様はそれを「偽善者」と言いました。だから、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と。「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。あなたは、人からどう見られるか、どう評価されるかとか、人から何を得るかではなく、あなたとあなたの父との命の交わりに生きる者なのだと教えられたのです。
ファリサイ派は、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのか」と詰問し。イエスご自身も「律法破り」と指弾されました。しかし、メシアであるイエス様は、律法を完成する方です。「言い伝え」をわざと無視し、形骸化して神との親しい命の交わりを失い、干からびてしまったファリサイ派の人々の姿を指摘されました。
イス様は、ファリサイ派の人々は「言い伝えのために、神の掟を破っている」と厳しく指摘します。その例として「あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と」。これを「コルバン」と言いますが(マルコ7:11)、体の良い言い逃れです。まさにここに引用されるイザヤ書29:13の言葉が成就しています。
清めについても、外から入るもので人を汚すことができるものはないと教えられました。パウロも言いました。「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だから」と。ただ、信仰の弱い人は良心の咎めを感じてしまうから、それには配慮せよと。
外から私たちの内に入るものは、私たちを汚すことなどできません。私たちを汚すのは、私たちの内から出るのです。つまり、問題は人の内側、私たち自身です。なのに、人の行いを見て、「あの人は!」「あなたは!」と指摘する。しかし、人の「正しさ」など、いくらでも偽装できるのです。いくら人の目に清く正しく見えようとも、神からご覧になれば、それがいったい何なのか。「義人なし、一人だになし」です。
イエス様はそうした人間の本質を言い当てておられます。本当に清い者や正しい者などいないのだと。もし私たちが神の前に清くなるとしたら、私たちの罪、咎、汚れを負って血を流されたイエスと結ばれることによるしかありません。私のために死んで復活され、命の霊となられたイエスの霊が注がれて、神から生まれた者とされるしかないのです。
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