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背中を守る神

説教要旨(5月18日 朝礼拝)
マタイによる福音書 6:25-34
牧師 小宮一文

 イエスさまは「思いわずらうな」と言って、患っていることに気づかせてくださいます。悩みではなく、患っているのだと。作家の三浦綾子さんの言葉で「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない」という言葉があります。イエスさまは悩みという言葉で解決しようとしません。患いに切り込んでくださいます。
 私たちは物事がうまくいかなかったとき、「こんなはずでは」と頭を抱えることがあります。「こんなはずでは」という言葉には本音があると思います。ではどんなはずだったのかと問われるとき、「わたしの思っていた通りになるはずでした」とは恥ずかしくてなかなか言えません。「こんなはずでは」と頭を抱えている人は一見すると同情を引きますが、あまり褒められたことではありません。自分の人生の支配者はあくまで自分だと思っていたことがそこにはあらわれているからです。
 イエスさまは私たちが自分の思いにしがみつこうとすることからたびたび離れさせようとしたように思います。そのことをマタイによる福音書の18章にある「仲間を赦さない家来」のたとえ話に感じます。このたとえ話はペトロの質問をきっかけとして始まりました。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」というペトロの質問は、ペトロが赦しを心の問題として捉えていたことをあらわしています。心の隅々まできれいさっぱり清めて、その人を受け入れるのは何回までか。しかしイエスさまがこのたとえ話で伝えているのは「あなたはその人を同じ主のしもべとして留めておくだけでいい。それなら何回でもできるはずだ」ということです。イエスさまは「あなたの心情の問題ではない」と言っているのです。でもそうだと思います。私たちは赦そうと心を清めて、10パーセントでも心にしこりが残っていたり、違和感がぶり返したりすると「自分はまだあの人を心から受け入れていない」というように思ったりします。そして自分を苦しめます。でもこのたとえ話でイエスさまが言おうとしているのは「あなたの心の問題じゃないんだ」ということです。「同じ主のしもべとして留めて、あなたはわたしに仕えればいい。自分で完璧に納得できるかどうかではない。それはあなたが抱えることではない。だから思いわずらうな」と言っているのです。
 私の好きな説教者にクレッグ・バーンズという牧師がいます。適当そうな、いい顔をしています。この先生が「自分もどこで最初に聞いたか忘れちゃったんだけど」と言って、でも普段から好んで自分に語っているという言葉を紹介していました。
 「お前に懸かっているんじゃないよ」というひとことのフレーズです。「クレッグ、それはお前に懸かっているんじゃないよ」。私もこの言葉が気に入りました。その先生はこう言います。「天の計画を信じる者は自分にすべてが懸かっているとは思わない。だから人生で何かを決めるときも自分の決断にすべてが懸かっているかのように眉間にしわを寄せない。むしろ笑っている。何かを決めるときも笑っている」と。「お前に懸かっているんじゃないよ」。
 イエスさまが「野の花、空の鳥を見よ」の教えを語ったとき、そこで弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と言われました。弟子たちを叱責しているように見えますが、良い方向に弟子たちを導こうとする言葉だと思います。もとの言葉は「信仰が小さい者たちよ」です。イエスさまは「信仰が小さい」と言うことで「あなたは自分が大きくなっている」と言いたいんです。「あなたはいま思いわずらって自分が大きく、重くなってしまっている。自分の思いが重くなって溺れかかっているじゃないか。それはお前に懸かっているんじゃないんだよ。自分を小さくしてごらん。わたしが働くから」。
 「お前に懸かっているんじゃないんだよ」。私たちが人生で何かを決断するとき、重い顔をするのは自分の人生は自分のものであって自分に懸かっていると思っているときです。でもそれは違います。神さまのものです。神さまが責任を持ってくださいます。