安心しなさい、私だ
説教要旨(5月25日 朝礼拝)
マタイによる福音書 14:22-36
牧師 藤盛勇紀

イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ」ました。ただ、この時イエス様は祈るために山に登られ、舟には不在。弟子たちの舟は夜明けまで逆風と波に翻弄されます。この危機から脱しえたのは、必死に努力した彼らの力ではなく、思いがけず外から近づいて来られたイエスだった。マタイは、これは単なる昔の奇跡物語ではなく、イエスが私たちに経験させてくださる事実だと知ってほしいのです。この出来事を知っているのは十二弟子だけ。群衆や観客の立場で見ていたら分かりません。
世の人は、目に見える事実や数量化・数値化される物事しかリアルだと感じられなくなっています。しかし私たちは、見えないものに目を注ぎます(2コリント4:18)。信仰は見えない事実をいま確認します(ヘブライ11:1)。それは、過ぎ去る世の次元とは違う新しい命に生かされること、新しく生まれることです。
その命を与えるのは誰なのかを聖書は語っています。それは、あなたの人生を始めさせてくださった方、イエスだと。イエスはいつでもどこでも、どんな時にもあなたの造り主、命の主なのだと証言しています。このお方が、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます(28:20)。これはあなたにとっても事実なのだと。
水の上を歩くなど、誰でも荒唐無稽な作り話だと思います。だからと言って、奇跡を頭から信じ込むことが信仰なのでもありません。この出来事をリアルに自分の事実と知っているのが信仰です。信仰は、今は苦難の時だが、やがて良いこともあるとか、私もいつかもっと良い人間になれる、などと当てにすることではありません。今すでに、自分が神によって生まれた者として生かされ、今が恵みの時だと知っていることです。神の御子が人となって世に来られたのはそのためです。
イエスが生きておられ、私と共に歩んでくださっている。それはキリスト者にとって今の事実ですが、時にそれが失われ、忘れられてしまうことがあります。信仰の危機です。
「舟は…逆風のために波に悩まされていた」。漕ぎ出した時は特に不安もなかった。ところが波風を見ると、イエスの不在が不安になり悩みになり、今にも波に飲まれそうだという実感が全て。それが彼らの現実でした。肝心な時にイエスはいない!その思い込みが不安であり、危機なのです。イエスはおられない! だから彼らは主を見て「幽霊だ」と思って恐れ、叫び声をあげます。イエスご自身が来ておられるのに、安心して喜べるのに、なのに恐れ怯えてしまう。人の悩みというのはそういうことなのでしょう。「まさか、こんな所には神はいない」。
パウロは言いました。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか」(ローマ8:31)。何を恐れ悩み続けることがあるか。「まさか主は…」、そういう「神の不在」こそ人間の悩みの根っこにあるのでしょう。
しかし、私たちが思いもしなかった時、気づかない先に、主は来てくださっている。なぜ気づかないのか、どうして気づいたか。それは、主の言葉です。そこにイエスご自身とその言葉があった。その事実です。
イエスは「すぐ」彼らに話しかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。なぜ、恐れず安心できるのでしょうか。根拠は一つです。「私だ」と言われるお方がいる事実。この方が「私だ(エゴー・エイミ"I am")」と言われる。モーセが初めて神の声を聞いた時、彼は神の名を尋ねました。神は答えて言われました「わたしはある(I am)。わたしはあるという者だ」。
神は万物の創造者、存在させる方、ご自身以外の何ものにもよらずに在す方。だから、"I am."としか言いようがない。何ものにもよらずに在すお方ご自身が、「私だ」と来ておられる。だから「安心しなさい」。
この方の言葉に、「主よ、あなたですね」と応えて生かされる。そこから始まります。ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言います。主が「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩いてイエスの方へ進みました。この方がおられる。だから私は歩ける。嵐の中で翻弄される小舟でも、漕いで行ける。このお方が、私たちをこの舟に乗せたのです。
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