地の果てまで導く霊
説教要旨(6月8日 ペテンテコステ礼拝)
使徒言行録 1:3-11
牧師 藤盛勇紀

復活の主は、「四十日にわたって…、神の国について話された」。この後弟子たちに聖霊が降って教会が生まれ、弟子たちはキリストの証人として宣べ伝えて行きます。その時のために、主は語られます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。イエス様が十字架の死以前に弟子たちに詳しく語った「聖霊」のことです。聖霊は主の言葉を全て思い起こさせ、悟らせてくださると。聖霊が与えられることは、主が私たちの内に住まわれることであり、しかも永遠に共におられると教えられました。
イエス様は、この聖霊を待ちなさいと言われます。主は天に上げられて体をもってこの地上にはおられなくなる。すると弟子たちは取り残されるかたちになり、これからはいちいち主の教えや指図がなくなる。しかも弟子たちの使命は「地の果てに至るまで」キリストの証人となるのだと。
イエス様が捕らえられた時、弟子たちは主を見捨てて逃げ去ってしまった。つい最近のことです。そんな裏切り者の彼らに、主の使命に応える力も資格もありません。しかしイエス様は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束されます。
どれくらい待てばよいのか分かりません。弟子たちは、それはいったい何時なのか尋ねますが、主は「あなたがたの知るところではない」と遮断されます。時を定めておられるのは神ご自身です。「イスラエルのために国を立て直してくださる」決定的な事が起こる時は、神がお定めになります。
イザヤ書にこういう言葉があります。「わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。…わたしは語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる」(46:10-11)。神のご計画は必ず成ります。神ご自身が全て実行される。だから私たちは信頼して希望をもって進めばよいのです。「それはいつ」「どんなふうに実現されるのか」などと問うのはつまならい詮索です。
主は、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われますが、弟子たちには全くイメージできません。サマリアは避けて通るべき所、まして地の果ての異邦人世界に宣べ伝えるなど想像もできない。しかし、これは約束なのです。そうなるように頑張れ、ではありません。聖霊をいただいた者は、力を受けた主の証人です。
イエス様は必要なことを全て語り、全て成し遂げ、そして天に上げられました。弟子たちにとって、復活の主と出会って、癒やしと平安に与ったことはどれほど大きな喜びだったでしょうか。ところが、主は自分たちを残してこの地上から消えてしまった。彼らはただ呆然と、イエス様を上にまさぐるように天を見つめています。
イエス様の昇天は、親が子を突き放すことに似て、言わば弟子たちの自立を命じます。だから御使いは、叱るように彼らに言います。「なぜ天を見上げて立っているのか」。いつまでも天を見上げて突っ立っているな! むしろ地を見よ、足元を見て自分たちのなすべき業に進めと。もちろん、昇天された主は、弟子たちを見捨ててしまったわけではありません。聖霊を彼らに注いで、より確かに彼らと共に生きて働かれるのです。
「地の果てに至るまで」主の証人となると言われましたが、「地の果て」とはどこでしょうか? 後に使徒とされたパウロは、文字通り地の果てのイスパニア、今のスペインを望み見て、ローマまで行きました。しかし、それは晩年のことで、それまではあらゆる町々を巡り歩いたのです。「地の果てに至るまで」とは、一気に海外宣教に出て行くとか、遙か遠くの地へ行って伝道するということではなく、どこに行こうとその行く先々で、自分が使わされているところで、キリストの証人として生きることです。あなたが今遣わされている所、そこにキリストを知らない多くの人がいます。神の愛も恵みも味わうことを知らない人々がいます。そこも地の果でしょう。私たちがこの地上で生きる所、行く所、全てが「地の果て」です。あなたの行く先々が、主が共におられ、主が働かれる所、主の真実と恵みを味わう場なのです。
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