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自分で判断しなさい

説教要旨(12月18日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 11:2-16
牧師 藤盛勇紀

 パウロは、「伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います」と、コリントの信徒たちをほめています。「伝えられた教え」は《言い伝え・伝承》という言葉ですが、これは使徒たちが伝えたものです。新約聖書が完成していない時代、主イエスから直接教えを受けた使徒たちが伝えた言葉が、信仰と生活の規範でした。使徒が伝えたことをコリント教会が守っていたのは、今日の私たちが、聖書を信仰と生活の規範としていることと同じです。
 分かり難いのは次です。パウロは唐突に男と女の話を始めたように思われますが、何を問題にしているかと言うと、4節5節に繰り返して言われる「祈ったり、預言したりする際」のこと、皆か集まって礼拝する時のことです。パウロはまず男について言いますが、パウロが問いたいのは女性たちのことでした。当時の教会は、律法を重んじるユダヤ人キリスト者もギリシア人(異邦人)キリスト者も、一緒に礼拝を献げていました。会堂では、ユダヤ人女性は頭を覆い、ギリシア人の女性はかぶり物を着けません。問題は、「祈ったり、預言したりする際」のことです。当時、礼拝で「祈ったり、預言したりする際」、霊的恍惚状態になって、髪や服装を振り乱して語る霊的熱狂主義の女性たちが現れたようです。古代ギリシアの思想に、最も偉大なものや善きものは狂気において現れるという考え方があり、それが教会にも影響して「異言」に熱狂する現象も見られました。実際に礼拝が混乱させられていたわけです。
 その次も問題にされそうな箇所です。「男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です…」。ここを、現代人が考える平等の理念や権利感覚から読むと理解できなくなります。少し聖書を読んでいる人であれば、ここでパウロは創世記の神の創造の業から秩序を考えていることが分かると思います。「かぶり物」との関連でも、礼拝の秩序を具体的に考える時、聖書の言葉から理解する必要があります。現代人にとっての自由や基本的人権といった普遍的な諸価値も、聖書との対話から生まれてきました。だから聖書から離れたら、根拠を失うのです。
 男と女について言うならば、「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」が結論であり前提です。ただ、当時の礼拝の問題としては、女性が語る時にはかぶり物を着けるのが自然だったので、かぶり物をかぶるべきと言うのが自然でした。現代の私たちにとっては、かぶり物をかぶらないのが自然です。この当時、《あえて》かぶり物をかぶらないのは特別な主張であり、あえてそれを取って振る舞う特殊な行動でした。それが教会の人々に動揺や混乱を与え、異様な状況を生み出していたのです。ここには、礼拝の秩序を回復させるための具体的な指示がありますが、普遍的な定めではなく、当時の教会の実態を踏まえた指示です。
 しかし、どの時代にも通じる原理があります。それは、聖書に基づいて判断していくということです。神の言葉は生きていて、今の私たちも、今この時この場で、常に御言葉に聞きながら生きています。だからパウロも「自分で判断しなさい」と言うのです。聖書を通して今あなたに語っている主に聞きながら判断することです。
 パウロは、自分が伝えた「言い伝え」から話を始めました。私たちも様々な伝承・伝統を受け継いでいますが、どの時代にも変わらない伝統は、聖書(御言葉)によることです。それは(11)「いずれにせよ、主においては…」と、キリストに結ばれた者として考えること、主の御言葉に根拠を与えられて判断していくことなのです。「すべてのものが神から出ている」と知ったのだから、この世界も歴史もその中の秩序も、神から捉えることです。だから、自分自身が主のものとされている恵みを覚えたいのです。主を喜び、主のものとされた自分を喜び、主をほめたたえている。それが、自分で判断して生きる者の幸いです。