祈り働かれる主
説教要旨(4月29日 朝礼拝)
申命記 第10章12-22節
マルコによる福音書 第1章35-39節
佐藤智子
イエスさまは、何かを決意され、起きて寂しい場所に離れ去って行かれ、そこで祈られたと、マルコによる福音書は記しています。
そのイエスさまを探して、急いで後を追ってきた人たちがいました。<シモンとその仲間>は、イエスさまの後を急いで追いかけ、イエスさまを見つけます。
イエスさまが独り静かに祈られている場所へ、イエスさまの祈りを遮るようにして、弟子たちは言いました。<みんなが探しています>と。シモンとその仲間は、イエスさまを人々のもとへ連れ戻すために、やってきました。しかしイエスさまは、弟子たちの<みんなが探しています>という言葉に対して、<近くのほかの町や村へ行こう>と言われ、カファルナウムから出て行かれるのです。イエスさまは「みんな」のところには戻られない。しかも、イエスさまを「みんな」のもとに連れ帰るために、イエスさまの後を追って探し出した弟子たちに向かって、イエスさまは「行こう」と言われました。この弟子たちを連れて行こうとされるのです。<そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。>と、イエスさまは言われました。
なぜ、カファルナウムから、イエスさまを探し求めていた「みんな」のところから、去って行かれたのか。
イエスさまは、カファルナウムでなされたことを、すべて否定して、新しい活動を、新しい地で行うことを考えられたのではありませんでした。イエスさまは、カファルナウムでなされたことを、他の場所でも行うために、カファルナウムを出て行こうとされるのです。イエスさまは、福音が、一つのところに留まるのではなくて、広く、ガリラヤ全土に、世界に広がっていくことを、願われたのでした。イエスさまは祈りによって、父なる神の御心を聞かれ、ご自身を整えられて、新しい働きへと、向かわれます。
しかし弟子たちは、イエスさまのその祈りの時を遮り、イエスさまを「みんな」のところに連れ戻そうとしました。イエスさまを自分たちだけのものにしようとした。そのようにして、宣教活動を邪魔する弟子たちの姿に、罪の姿があり、それは私たちの姿でもあります。神さまの思いを正しく受け止めることができず、自分たちの思いを優先させて、神さまのなされることを、阻止しようとするのです。
共に与えられた旧約聖書申命記第10章12~22節において、モーセはイスラエルの民に、神さまが望んでおられることを、示そうとしました。モーセは神さまの思いを、イスラエルの民に正しく伝えています。神さまの思いは確かに、イスラエルの民に、さらには私たちに向けられています。しかし、私たちはこの箇所を注意深く読まなければなりません。読み飛ばしたり、省略したりしてはいけない。主を畏れること、主が示された道に従うこと、主を愛し、全身全霊をもって仕えること、主の戒めと掟を守ること。これらのことを読み飛ばして、私たちが幸せになるために、神さまがおられるなどと思ってはならないのです。神さまは、私たちの願いのためにおられる方ではなく、私たちの奴隷ではありません。
しかしそんな弟子たちを、私たちを、それでも、イエスさまは、伴われるのです。<近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。>この世界に来られた神は、今日においてもその働きを推し進めておられます。そして、その働きに私たちを関わらせてくださるのです。「さあ、行こう」と。
この祈り働かれる主に、従う者とされたいと願います。真の悔い改めを持って。
説教一覧(2012年度)
2012.04.01
権威ある新しい教え
2012.04.08
ガリラヤへ
2012.04.15
手をとって起こしてくださる主
2012.04.22
神の力強い御手の下で
2012.04.29朝礼拝
祈り働かれる主
2012.04.29夕礼拝
我らの罪をも赦したまえ
2012.05.13
御心ならば
2012.05.20
主の平和
2012.05.27朝礼拝
あの時のように、今も
2012.06.10朝礼拝
天の国の鍵
2012.06.10夕礼拝
わたしを形づくるもの
2012.06.17朝礼拝
救いは、主こそにある
2012.06.17夕礼拝
天に富を積む
2012.07.08
感謝
2012.07.15
罪を赦す権威
2012.07.22
十字架の言葉
2012.07.29
罪人を招くために
2012.08.12
キリストの思いを抱いて
2012.08.19
収穫感謝
2012.08.26
なぜ怖がるのか
2012.09.02
聖霊のうめきによる偉大な助け
2012.09.09
闇の民に愛の光