感謝

説教要旨(7月8日)
詩編 第105編1-6節
コリントの信徒への手紙 第1章1-17節
上田容功

 コリントの信徒への手紙一は、パウロによってコリントにある教会に宛てて書かれた手紙である。第二回目の伝道旅行の時、パウロはアテネからコリントにやって来てユダヤ人の会堂で神の言葉を教え、1年半コリントに滞在し教会の基礎を据えた。
 パウロが去った後、コリントの教会はいろいろな問題を抱えていたようだ。与えられた段落には、一つの問題が取り上げられている。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間で争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。めいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い争っているとこのことです」。何について意見が対立していたのか、詳しいところは分からない。しかし、コリントの教会の中で、何らかの軋轢が生じていたことが聖書から伝わってくる。バラバラになっているコリントの教会の人たちに向かって、牧会者パウロは一つになるようにと必死に勧める。「勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。教会の一番大切なしるしは一つであることだ。好き勝手なことを言ってバラバラになってしまったら、キリストの十字架が無意味なものになってしまう。そのような思いから、パウロは次のように問いかける。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」。どうしてもコリントの教会の人たちに心を一つに合わせて教会を形づくっていって欲しい、神に喜ばれる教会であって欲しい、それが、牧会者パウロの切実な願いであった。
 一つの思いになれないコリントにある教会。しかし、牧会者パウロは、そのような教会を見放さない。パウロは、感謝できないような教会の状況を耳にした上で、感謝の言葉を口にする。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」。コリントの教会の人たちに手紙を書き送るにあたり、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、パウロは何よりもまず始めに神の恵みに目を注いでいる。
 パウロが教会について述べていることの一つは、教会は神の教会である、ということだ。もう一つは、教会は神に召された者たちの集いである、ということである。それぞれ勝手なことを言って、神を悲しませているコリントの教会の人々に対して、パウロは、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と語りかける。パウロ自身、神の御心によって召されて使徒とされた。共に神によって召されている、そのような神の憐みを思うとき感謝せずにはいられない。救いの御業に対する心からの感謝の思いが使徒パウロの伝道牧会を支えていた。
 混乱の中にあるコリントの教会をも、神は愛し続けておられる。教会はいつでもキリストにあって一つである。私たちが一緒に礼拝を捧げられるのも、十字架にご自身の命を差し出されたキリストの執り成しによる。一人では生きられないからこそ、神は私たちを礼拝へと招いてくださった。一つにするために、天の国の先取りである礼拝の恵みを備えてくださっている。
 パウロが、勝手なことを言っているコリントの教会の人たちにどうしても伝えたかったことは、自分は十字架の福音を告げ知らせるために遣わされた、ということである。主の十字架は、バラバラになってしまう私たちを一つに結び合わせる和解の力である。私たちはキリストに結ばれ、すべての点で豊かにされている。パウロは、愛情を込めて育て上げたコリントの教会の人たちに語りかけた。「あなたがたは賜物に何一つ欠けるとことがない」。すべては神の恵みの賜物である。