収穫感謝

説教要旨(8月19日)
申命記 第26章1-11節
ローマの信徒への手紙 第12章1節
上田容功

 申命記には、約束の地を目の前にしてヨルダン川を渡ろうとしているイスラエルの民に対して、モーセが語った言葉が書き記されている。第26章には、祭司のいる中央聖所に地の実りを携えてきた人々が、農作物の収穫に感謝して祭壇で初物を捧げることが述べられている。1~2節には、「主が与えられる土地」と繰り返し言われている。その土地とは、主なる神がイスラエルの先祖たちに誓われた約束の地である。その約束の地に入って定住し、その土地から取れた農作物の初物を主の祭壇の前で神に捧げる時、なぜ今の生活があるのかということを、申命記はイスラエルの民に思い起こさせるのである。
 律法は、主の祭壇に進み出る人々に、信仰告白をするように命じる。5節後半から10節前半に記されている信仰告白は、イスラエルの民の歴史の要約であるが、それは神の救いの歴史であり、イスラエルに対して神が示された慈しみの歴史である。主の祭壇の前に進み出た人々は、地の実りに感謝しつつ、贖い主なる神への信仰を告白している。乳と蜜の流れる土地は、民が自分たちで獲得したのではなく、神が与えてくださった土地である。その土地から収穫される農作物は、自分たちが汗水流して得たものかもしれないが、神が与えてくださった恵みの賜物である。与えられた恵みに感謝し、そのしるしである地の実りを、神にお返しするのである。
 中央聖所での収穫感謝の祭りで、イスラエルの民が主の祭壇に供えるように命じられているものは初物である。初物とは、収穫された農作物の中でも最初に収穫されたものである。苦労の末にやっと収穫された地の実り。それも、翌年の収穫があるかどうかは分からない。それゆえ、初物は大変貴重であった。そのような初物を、まず神に捧げるのだから、それは、すべてを捧げることと同じである。
 私たちの人生もすべては神が与えてくださったものである。積み上げてきた実績や評価、貯め込んできた知識や財産、築き上げてきた家族や人間関係、自分の命でさえも、これは私のものだ、と主張できるものは何一つない。この主日の朝も神が与えてくださった。私たちを愛し、命を与え、今日まで生かし、この礼拝へと呼び集めてくださったのは神である。神のものを神にお返しする。それは、信仰生活において様々な形で表わされる。献金であったり、問安であったり、貴重な時間であったり。大切なことは、どんなささやかなことであっても、感謝して惜しみなく捧げる、ということではないだろうか。それが初物を捧げるということである。小さなことに大きな愛を込めて捧げるとき、神は喜ばれる。真心を込めて捧げるとき、神が、不十分な捧げものを豊かなものへと変えてくださる。
 神に初物を捧げる収穫感謝の背後にあるのは、神の救いの御業である。イスラエルの民にとって、出エジプトという救いの出来事であり、キリスト者にとっては、主の十字架の出来事である。御子はすべてを与えるためにこの世に来られた。十字架でご自分の命さえも差し出された。主が、まず始めにご自身のすべてを捧げて私たちを生かしてくださった。ここに私たちの感謝の捧げものの原点がある。
 当然と思っているとき感謝の言葉は出てこない。この礼拝に出席しているのも当たり前のことではない。そのことは、この礼拝のために毎日体調を整えている皆さんはよく分かっているはず。私たちの体も、魂も、健康も、すべては神の恵みの賜物である。そのような私たちがなすことは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」献げることである。一週の初穂である主の日。週の始めの日を御恵みに感謝して、真心を込めて主日礼拝をお捧げすることから始められることに感謝したい。