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御心ならば

説教要旨(5月13日 朝礼拝)
列王記下 第5章9-19節
マルコによる福音書 第1章40-45節
佐藤智子

 イエスさまのところに来た、重い皮膚病を患っている人は、イエスさまの前にひざまずき、懇願しました。<御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。>「あなたが私を清くしようと思われるのであれば、あなたはわたしを清くすることがおできになる。そういう方である」と、はイエスさまに向かって言うのです。自分の思いを、すべて後ろに投げ捨てて、今自分の目の前にいる人に、自分の全てを預けて、言うのです。イエスさまの持つ権威に対して、イエスさまの御力に対して、この者は一切の信頼を寄せています。
 この重い皮膚病を患っている人の言葉に対して、イエスさまは深い憐れみをもって、手を差し伸べられ、この者に触れて<よろしい、清くなれ>と言われました。イエスさまが、癒しの御業を行うに至る動機は、イエスさまの「深い憐れみ」であったと、聖書は証言をしています。しかし、この「深く憐れまれた」と訳されているところは、「怒りに満ちて」という訳が本来のものであったのではないかと学者の間で考えられています。さらにイエスさまはこの後、重い皮膚病を患っていた人を、すぐに追い出され、その時に激しい調子で息巻いて次のように言われたと、伝えられているのです。<だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。>
 しかし重い皮膚病を患っていた人は、イエスさまの前を立ち去ると、イエスさまの禁止命令を無視して、大いにこの出来事を人々に言い広め始めました。イエスさまの言葉を無視して、違う言葉を言い広め始めたのです。イエスさまは、公然と町に入ることができなくなったとあります。
 「御心ならば」と願いつつも、それが聞かれるとすぐに、「御心」を忘れて、主の御言葉を忘れて、自分の思いで生きようとする人の愚かさ、罪がここには描かれています。この時イエスさまは、重い皮膚病を患っていた人が癒され、清められたことによって、社会との交わりが回復されることを、願われました。そして癒しの御業を自分に起こしてくださった神を見上げることへと、この者をお招きになられたかったのではないでしょうか。しかしこの者は、「御心ならば」と願っておきながら、その御心に最後まで従うことができなかった人物として描かれています。それに対して、主は怒りをもって臨まれるのです。
 「御心」を願いつつも、一度は本当に信頼しつつも、しかしその信頼(信仰)はもろく、消え去っていくのです。本当に従いえないのです。主の御心を勝手に決め付け、自分を正当化して、自分で自分を救おうとする罪が私たちのうちにあります。そうして主の御言葉を、主の救いの御業を、完全に無視してしまうのです。
 しかし、主イエス・キリストはその御手を差し伸べて、この汚れた存在に触れ、「私は望む、清くなれ」と言って、清めてくださいました。そうしてキリストは、罪の汚れをご自身のうちに担ってくださり、十字架にお架かりくださったのです。十字架の血によって、主が私たちを清めてくださいました。
 「御心」は、御言葉を通して神に示されることによってしか、私たちは知る術を持ちません。それであっても、度々私たちは誤解をするのです。
 教会の歩みも、私たち信仰者一人ひとりの歩みも、神によって規定されること以外に、歩む手段はないことを、私たちは今一度覚えたいと思います。そして<御心ならば、わたしを清くすることがおできになります>というこの言葉を、私たちはまことの信仰をもって、主の御前で申し上げたいと願います。