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死と復活による道

説教要旨(7月20日 朝礼拝)
マタイによる福音書 16:21-28
牧師 藤盛勇紀

 この直前、ペトロはイエス様に「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と、人類初のキリスト告白をしました。この告白の上に、主は「私の教会を建てる」と宣言され、ペトロに「天の国の鍵」を授けると約束されました。「このときから」、イエス様は「打ち明け始められた」。いわゆる受難予告です。この後、この予告は何度か繰り返されますが、弟子たちは理解できません。そもそもメシアが人々から、しかも宗教指導者たちから苦しめられて殺されてしまう、などということは絶対にあってはならないことだからです。
 そこでペトロは、イエスをわきへお連れしていさめ始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。諫めたというより、叱りつけ始めたのです。強い意志をもって全否定し、阻止するのです。
 人間の口から初めて出たキリスト告白に、イエス様も、まさに人間に対して初めて、自分がメシアとして殺されて、復活する、と打ち明け始められた。ところが、ペトロは叱り始めた。何と悲惨な食い違いでしょうか。ここにすでに、メシアの受難が始まっています。愛する弟子たちに、最も大事なことを打ち明けたのに、弟子たちの方は何も理解しない。それどころか、あってはならぬことと断定する。あってはならないことは捨てなければならない。だからメシアは捨てられるのです。
 これはまさに悪魔がしようとしていることです。人間に対する神の救いのご計画を悪魔は知っています。メシアが人間の罪を負って死ぬことを、何とか阻止したいのです。主はすぐその場でペトロに言われます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロの思いはサタンに利用されて、メシアを十字架の死から遠ざけようとしています。
 弟子たちはイエス様を信じています。イエス様は彼らを救うことを決意しておられます。しかし、弟子たちの霊的な目は曇らされたままです。かつてイエス様が、たとえで語られた天の国は、まだ「天の国の秘密(秘められた計画)」だからです。これは聖霊が降ってから始めて開き示される真理です。
 今の私たちは、すでに聖霊降臨後の時代にいます。天の国の秘められた計画は、すでに開示され、明らかにされています。私たちがまだ罪人だった時に、神の御子が死んでくださり、その贖いの業によって、私たちはすでに赦されています。私たちはその真実を、すでに知らさています。
 しかし、それを知っただけでは、私たちはまだ何者にもなってはいません。御子に示された神を知った者として、どう生きるのか。主は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と。
 主はすでに、必要なことは全て成し遂げ、私たちに真の命を与えておられます。なのに自分で命を何とかしようとするのは、命を得ることではありません。自分で自分にしがみついて生きるのではなく、「私につながっていなさい」と主は命じられました。「私につながっていなければ、あなたがたは何もできない」。イエスによって命を与えられた私たちはまた、イエスが与えてくださるものによって支えられ、力と希望を得、救いの完成まで導かれ続けるのです。
 主イエスの弟子として生きることは、ある犠牲が伴うことは確かですが、「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と主は言われました。主のために不利益を受けたり、時に迫害もある。しかし、イエスにあって生きる者は霊的な祝福を受け続けます。「天には大きな報いがある」とは、死んでから良いものを受けるということだけではありません。むしろこの地上で、常に主と共に生きることの幸いを実際に身に受けて、恵みを味わいながら生きるのです。イエスと一つとされて生きる者は、古い自分はすでにイエスと共に十字架につけられています。そして、死ぬべき自分を、命の霊となれたイエスが生きておられます。私の十字架とは、イエス様の十字架です。それは、何ものにも優って甘美な道であり経験なのです。