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山上でのイエスの変貌

説教要旨(8月3日 朝礼拝)
マタイによる福音書 17:1-13
牧師 藤盛勇紀

 前回の出来事は、大きな峠でした。ペトロの口から人類初のキリスト告白がなされ、イエス様もご自分がエルサレムで宗教指導者たちによって殺されると受難予告をなさいました。イエス様は十字架の死に向うのですが、峠の向こうが見えない弟子たちには理解できません。そんな時、他に誰も見ていない高い山で、主はご自身の栄光の姿を現されました。ただ、今見たことをだれにも話してはならないと命じられました。なぜこのような仕方で、ご自身の真の姿を現されたのでしょうか。
 この後イエス様がエルサレムに入ると、奇跡を行うことも止めてしまいます。ついにメシアとしての力を発揮して、ユダヤ人の王となるのかと思ったら、あっけなく逮捕され、弱く惨めな男になってしまう。だからこそ、主はこの特別な場でただ一度、ご自身の栄光を予めペトロたちに示されたのでしょう。ずっと後に、ペトロはこの経験の意味を知り、それを手紙に記しました(2ペトロ1:16~18)。
 主と共に山に登ったのはペトロとヤコブとヨハネの3人。彼らは地上では決して見られない光景を見ます。真の人にして真の神イエスの真の栄光の姿。そこにモーセとエリヤも現れたのですから、ペトロたちが受けた衝撃は想像を超えます。モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表。聖書全体が証しする神の救いのご計画を表す存在でしょう。彼らが話していたことは何だったのか。その内容をルカが記しています。「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について」。イエス様の最後は十字架の死。このお方の死によって、罪の中にある私たちが罪と死の定めから解放される。誰も思いもしないことです。
 ペトロは咄嗟に言います。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」。いったい何を言っているのか。ペトロは混乱したのだとも言われます。しかし、少し丁寧に聖書から見ると、ペトロの言葉は聖書を理解していると言えます。ユダヤ人の救いを表す過越祭、五旬祭、仮庵祭の三大祭があります。ゼカリヤ書14章の言葉を読みましたが、12章以下はイスラエルの救いの成就の時に関する預言です。その時どうなるか。「エルサレムを攻めたあらゆる国から、残りの者が皆、年ごとに上って来て、万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う」。メシアの到来によって救いが完成される時、仮庵祭が祝われるというのです。
 ただ、当時のユダヤ人が理解できなかったことがあります。メシアは世に来られるが、それは2回だということです。イエス様は確かにメシアとして世に来て、神の国が到来しました。しかし、完成されるのは主が再び世に来られる時です。それまでの間はどういう時か。イエス様が13章でたとえで語った天の国、聖霊降臨から始まる教会の時代です。ペトロは、ついに仮庵祭を祝う時が来たと思ったのですが、その前に、「過越祭」に犠牲の小羊として神の御子イエスが十字架につけられて殺されなければならない。モーセとエリヤはそれを語り合っていたのです。イエスはエルサレムに行き、過越祭の時に屠られる小羊として死ぬ。それが神の救いのご計画です。
 このご計画は、イエス様が天の国をたとえで語られた時、「秘密(秘められた計画)」だと言われました。人となられた神の御子が人間の罪を一身に負い、裁きを受けて死ぬ。そこに私たちの救いと命がある。それは、父と子とそれを私たちに悟らせる聖霊の三位一体の内にのみあったご計画です。
 だから、天の声が言うのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に聞こえた声ですが、この時には「これに聞け」と言われました。この声を聞いた弟子たちは、まだ理解できませんが、イエス様の死と復活の後、約束された聖霊が全てを理解させてくださいます。過越しの犠牲、神の子の死によって、私たちは完全に罪が赦され、復活の主に結ばれて真実な神の子とされる。私たちはこの方にあって、神の子とされた自分を生きるのです。この神の救いをこの地上で宣べ伝えながら、その恵み味わって生きます。主が再び来られる時まで、過越しの食事である聖餐に与りながら、主の死とその恵みを告げ知らせながら歩んで行くのです。