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あなたの兄弟を得る

説教要旨(9月14日 朝礼拝)
マタイによる福音書 18:15-20
牧師 藤盛勇紀

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とありますが、「あなたに対して」という言葉は翻訳によっては抜けています。有力な写本に「あなたに対して」という言葉が無いからです。どちらが正しいとは言えませんが、「あなたに対して」を入れて考えると、ある人の顔が浮かんできたり、言われた言葉やされたことを思い出して、苦々しい思いにもなるでしょう。するとイエス様が語られたことが素直に入って来ない。主が命じるように実際に面と向かって兄弟に忠告することも難しい。
 面と向かって批判する場面が聖書にあります。例えばパウロがペトロを批判したこと(ガラテヤ2章)。主の一番弟子のペトロを、教会の迫害者だったパウロが面と向かって非難する。パウロは信徒たちに対しても容赦ありませんでした。コリント教会にもそうでしたが、パウロが厳しく批判したのは、パウロ個人に対する非難や悪口が絶えなかったからではありません。傷つけられた自分の名誉を回復するとか、誤解を解きたいとか、そんなことのためではありません。
 教会は、福音を信じてキリストと結ばれ、新しい命を与えられて神の子とされる恵みと自由を得た者たちです。なのに、キリストもその恵みも無かったかのように、人間関係の問題に捉えられ、絡め取られ、「あの人が」と裁き合う。キリストは一体どこに行ってしまったのか。パウロが闘ったのはそうした教会の中に認められる罪です。だからパウロは「キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうを苦しむ」と言ったのです。パウロは、自分は使徒たちの中で一番小さな者、使徒と呼ばる値打ちの無い者だと言います。しかし、「使徒」は、キリストの体が具体的に現され、教会が建て上げられるための「土台」だと知っていました。
 イエス様はここで「教会」と言われます。これも16章以来で、この2回限りです。あの時、ペトロの口から「あなたは生ける神の子、メシアです」との告白が初めてなされました。そこで主は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されました。この「教会」は、イエス様が十字架で死んで復活され、天に昇られた後に約束の聖霊が降って、初めてこの地上に現れます。その時のために、主は「教会」のことを語っておられるのです。
 キリストの弟子集団であるこの地上の教会も罪を犯します。その時どうするか。それを主は示されたのです。私の教会を建てると言われた主は、「天の国の鍵」を授けると言われました。その鍵をこの地上でどう使うのか。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。今日のこの箇所で言われたことです。「天の国の鍵」とは、一言で言えば罪の赦しの権能です。主がある病人を癒やされた時、「あなたの罪は赦される」と宣言され、それを聞いた律法学者は、「神おひとりのほかに、いったいだれが罪を赦すことができるか」と思いました。その罪の赦しの権威を、主は教会に委ねられたのです。だから今の私たちも、キリストの福音にある罪の赦しを宣べ伝え、その恵みを信じて受け入れた人たちに、主が定められた洗礼を授けています。
 ですから、イエス様が言っておられることは、あの人が私にこんなことをした、などという問題ではなく、主の教会はどんな手続きで罪の赦しを、その福音を現して、主にある兄弟姉妹を得るのかということなのです。
 直前で、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と主は言われ、一匹の羊をどこまでも捜す人の話をなさいました。そしてこう言われます。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。まさに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 神の御子が、小さな一人一人のために肉を裂き血を流し、ご自身を罪の赦しのための犠牲となさった。私たちの内におられるこの方によって私たちは神の子とされ、永遠の命・神の命を得たのです。 教会はその恵みを現すためにあります。「あなたの罪は赦された。キリストにあって、神の子として歩きなさい」と、「罪の赦し」を宣言するのは、この世界の中で私たち教会だけがなす業です。