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からし種一粒の信仰

説教要旨(8月10日 朝礼拝)
マタイによる福音書 17:14-20
牧師 藤盛勇紀

 前回とは場面が変わり、位置的にも強いコントラストを示しています。イエス様が3人の弟子だけを連れて「高い山」に登りました。そこで、地上にいながら天上の光景を見たのでした。メシアとしてのイエス様の真の姿、モーセとエリアも現れ、天にある神の救いのご計画を見る経験でした。しかし今、彼らは地上に下りてきました。地上の生活は世の終わりでも、メシアによる神の国の完成の時でもなく、病があり悩みがあり、問題に満ちたまま。その現実の中で弟子たちは無力を思い知らされています。不信仰の現実、信仰の無さです。弟子たちは悪霊を追い出せず、周囲の人々も戸惑い落胆しています。
 そこでイエス様は言われます。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」。マルコ福音書によれば、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とも言われます。なぜ悪霊を追い出せなかったのか、弟子たちは主に尋ねます。彼らは主から権威を与えられ、病を癒やし悪霊を追い出した(10章)。なのに今はできない。イエス様は、「信仰が薄い(小さい)からだ」と言われます。端的に不信仰。それが地上の現実でした。この世は不信仰のためによこしまで、曲がってしまい、向かうべき所に向かわない。いつまで我慢しなければならないのかと、主は嘆かれます。
 そんな世にあって、神を信じて生きるとはどういうことなのか。イエス・キリストによって神を知り、信じたと言うキリスト者の信仰とは何なのか。私たちも、不信仰な世で無力を感じさせられます。「クリスチャンなのにこんなことも分からないのか、できないのか」と呆れられたり、嘲られもするでしょう。ここで弟子たちが経験しているようにです。「お弟子たちのところに連れてしましたが、治すことができませんでした」とは、弟子たちにとってはきつい言葉です。返す言葉もありません。私たちも、不信仰を指摘されたら認めざるを得ません。かと言って、頑張って自分の信仰を自分で大きくすることもできない。どうにも動かしようのない山を目の前に、途方に暮れるようなものです。
 しかしイエス様は言われます。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」。私たちは、信仰が薄い小さいと悩み問題にしますが、「からし種一粒」の信仰でそんな悩みも問題も突破されるのです。山は動くのです。からし種一粒は、普通に見えるものの中でおよそ最も小さいものです。だから、自分の信仰が大きい小さいが問題なのではありません。私たちの信仰は小さいんです。問題は、「からし種一粒」の信仰かどうかです。からし種は、粒というより粉のようです。しかし「種」です。生きているのか死んでいるのかも分からない小さいものですが、種には命があります。イエス様はよく種蒔きの話をなさいました。種が地に蒔かれたら、芽を出し成長する。蒔く人は、なぜそうなるのか知らない。しかし、「土はひとりでに実を結ばせる」と主は語られました(マルコ4:26~28)。砂粒を地に蒔いても芽は出ませんが、種には命が吹き込まれています。土に蒔けば、ひとりでに芽を出し、実を結ぶのです。
 麓に残された弟子たちはなぜ癒やせなかったのか。主が一緒にいなかったからです。かつて12弟子が病を癒やす働きができたのも、主が彼らを召して力を与えて遣わしたからです。全てを主から受けて、天の力をこの地上に現していたのです。「信仰」とは、主とつながっていることです。主が私たちに命じていることは、「私につながっていなさい」です(ヨハネ15章)。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と。
 イエス様は「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われましたが、この不信仰な世の人々のために、十字架の死に至るまで忍耐なさって、ご自身を献げてしまわれたのです。そして、死から蘇られたイエス様と結ばれる人は、死んでも生きる命を吹き込まれています。どれほど小さくても、天の命、神の永遠の命を宿している「種」です。天にある真の命に与って、この地上で山を動かすべく遣わされている者なのです。