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天の国の鍵

説教要旨(7月13日 朝礼拝)
マタイによる福音書 16:13-20
牧師 藤盛勇紀

 「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。人間からは出ようがない、画期的な人類初のキリスト告白です。この時イエス様は、この告白から始まる大いなる神の御業をここで告げます。「私の教会」の建設です。「教会(エクレシア)」という言葉が初めて出て来ました。この言葉は、呼び集められた集まりを意味し、市民の集会や議会のことを指しました。それを主は、「私の」と言われます。主が呼び集める集会、それが生まれるのだと。それを「この岩の上に」建てると言われますが、この「岩」はペトロ個人ではありません。ここでは、イエスをメシアと信じる信仰。そこに教会が生まれます。ただ、イエス様がこの地上におられる時には生まれません。
 最近何度も話していますが、主が13章で立て続けにたとえで語った「天の国」は、まだ存在していない教会のことでした。聖霊が降る時までは、「天の国」は「秘密(奥義、秘められた計画)」です。「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」(エフェソ3:5~6)。
 キリスト以前には知ることができない。、聖霊によって初めて啓示されるからです。この告白をしたペトロも、当然まだ分かっていません。しかし、イエス様は予め約束してくださいます。その約束は、信仰告白をした者たち・教会に主ご自身の権威を与える、つまり「天の国の鍵」の授与です。ペトロに与えられた「鍵」が扉を開き、主が招かれる人々をキリストの国、キリストの体である教会に入れる働きをすることになります。
 では、その国にどう入るのでしょうか。「罪の赦し」によります。神に背を向け、関係を切っている人間が、どうして赦されるのか。人間が勝手に「こうしますから」というわけには行きません。「赦し」は、ただ神が赦してくださるかない、一方的な恵みです。
 ある時、イエス様が「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言された時、律法学者たちは、「この男は神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったい誰が罪を赦すことができるだろか」と思いました。それは正しいのです。罪を赦す権威を、イエス様は、イエスをメシアと信じ告白する弟子たちにお委ねになりました。本来、神にしかできない赦罪の権威が、教会にのみ委ねられています。
 その権威・御国の鍵を「あなたに授ける」と主は言われます。しかし、この鍵はどのように使われるのでしょうか。罪の赦しの福音が伝えられ、扉が開けられていく。それがこの地で、どのように展開されて行くのか。
 後にイエス様は十字架につけられ、三日目に復活されます。そして40日にわたって弟子たちに「神の国」について話され、昇天されます。その直前、イエス様は、天の国の鍵がどう用いられて行くのを語られました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と。
 最初の教会は全てユダヤ人で、サマリア人とは交際しません。まして、「地の果て」異邦人の地に福音を伝えるなどいとう発想は全くありませんし、あり得ないことでした。そんな弟子たち自身が、聖霊によって砕かれながら、サマリア人へ、そして異邦人へと開かれて行ったのです。イエス様の出来事に、どれほど深く高く広い神の愛があったか。その真実を、自分がその鍵で開けられて、自分が思いもしなかった人々へと広がって行きました。それを使徒言行録は証ししています。
 私たちも、初めは目が閉ざされています。あるいは自ら閉じてしまいます。神の働きに触れられでも、いつまでも頑なで、自分勝手に誤解していたり、はっきり拒絶してしまったりします。そんな私たちを開くのは、私たち自身ではなく、主の言葉と私たちに注がれた聖霊です。聖霊が注がれたならば、生きて語り働かれる神ご自身と共に歩む経験が与えられます。そんな天の国の鍵が、私たちに委ねられているのです。