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子供のようになる

説教要旨(8月31日 朝礼拝)
マタイによる福音書 18:1-10
牧師 藤盛勇紀

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。子供のようになれと言われると、どう心を入れ替えればよいのか、何ができたら神様から「あなたは子供のようになれたね」と言っていただけるだろうかと考えるでしょう。しかし、それが大人なのです。「心を入れ替える」とは、「向ける」「翻る」という言葉。自分の人生を反省して、ここをこう入れ替えて、などということではないのです。
 イエス様は幼子たちを、「わたしを信じるこれらの小さな者」と言われます。「こっちにおいで」と主に呼ばれて、何の心配もせず信頼しています。大人は信頼も安心もなく、主の御前に出るには、私は何をすればよいのか、子供のようになるために、私は何をすればよいのか、私は、私は…、と考えています。
 この後の19章でも主は、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と言われます。その後、ある人が来て問うのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。その人は子供の頃から律法をキッチリ守ってきた立派な青年ですが、結局イエス様のもとから去ってしまいます。そのとき主は言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。…金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。これを聞いた弟子たちは驚いて言います。「それでは、だれが救われるのだろうか」。イエス様は、それは人間にできることではないが、神はできると言われたのです。あの立派な青年でさせ救われないなら、いったい誰が救われるのか、と戸惑う弟子たちに、イエス様は、「人間にできることではない」と言われるのです。大人は、自分のことは自分でと考えます。救いについても「私は何をすれば」「私は何ができるか」と。しかしイエス様は、「それはあなたするのではない。私があなたに与えるのだ」と(ヨハネ10:10~11参照)。
 人の親が自分の子には良いものを与えるように、父なる神はあなたに最も善いものを与えたいのです。それを受け取って、あなたに豊かになってほしい。そのための備えも、すでに完全になされました。なのに大人は、「それを獲得するために、私は何を…」という発想から出られない。恵みを恵みとしていただかない。恵みの神へ翻らず、決して自分を離さない。それが大人です。そんな子供は可愛いわけがありません。子供は何も心配しないで飛び込んで来きます。「私の父母は私のことをどう思っているだろうか」とか、親との関係をどうするかなど考えません。
 「わたしを信じるこれらの小さな者」と主が言われた幼子は、イエス様に呼び寄せられ、ただイエス様によって立たされています。その幼子らが、イエス様を「信じる者」です。ところが大人の弟子たちは、子供は邪魔だと思っています。だから子供たちをイエス様の所に連れてきた人々を叱るのです。イエス様はその弟子たちを見て憤られました(マルコ10:14)。「わたしを信じるこれら小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましだ」。また、「一つの目になっても命にあずかる方がよい」と主は言われます。私たちが命にあずかることは主の願いです。そして、「それは私がする。だから私のところに来い」と主は招いておられるのです。
 私たちの命は自分で獲得したものではなく、与えられたもの、恵みです。なのに、人は恵みをいただかず、「自分を低く」できず、「私が」「私を」と自分を上げようとしている。まして永遠の命・神の命は、神が与えてくださるものなのに。
 ある時、人々が主に尋ねました。「神の業を行うためには、をしたらよいでしょうか」。主は言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。私たちが信じる、それは「神の」業。私たちが信じて命を豊かに受けるために、御子は人となって世に来られたのです。このお方を信じるのは、私が命を得るために私は何もできなかった、ただ主が全てを為してくださった、私はただ豊かに受けます、と自分を手放すことです。「あぁ主よ、アッバ父よ」と、親を見つけた幼子のように手を広げるのです。