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天の国に入る者

説教要旨(10月19日 朝礼拝)
マタイによる福音書 19:13-26
牧師 藤盛勇紀

 ある金持ちの青年がイエス様に近寄って来て尋ねます。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。多くの財産を持った青年ですが、彼が求めていたのは「永遠の命」です。彼は「私に従って来なさい」と、直接主に招かれたのですが、結局従って行けなかった。彼が立ち去った後、主は言われました。「金持ちが天の国に入るのは難しい」「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。財産があることが悪なのではありません。富は神の祝福の現れの一つです。彼は幼い頃から神の戒めを守って、「永遠の命」を真剣に求めている誠実な青年です。それでも「まだ何かが足りない」と痛切に感じていたのです。
 ある夜こっそりとイエス様を尋ねてきたニコデモのようです(ヨハネ3章)。最高法院の議員で信仰的にはファリサイ派、宗教指導者たちのトップ。しかし彼も「最後の何かが足りない」と思っていた。だからあえてイエス様に会いに来ました。イエス様は彼が何を求めているかが分かります。それでいきなり本質に切り込みます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。戸惑うニコデモにイエス様は言われます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。神の国に入るとは、「新たに生まれる」こと、それは「霊から生まれる」ことだと言うのです。なおニコデモは戸惑います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」「どうしてそんなことがありえましょうか」と。この時のニコデモも、ここまででした。「生まれ」は自分ではどうにもならないからです。
 ニコデモも青年も優れた立派な人物です。しかし、イエス様に従えなかった。なぜか。 青年の言葉にも表れています。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。彼の問いは、「私は」何をしたらよいかです。自分に出来ることをやり切って永遠の命を得て、神の国に入りたい。だから「まだ何か欠けているでしょうか」と尋ねる。ニコデモも同じです。まだ自分がやるべきことが何かが残っている、そう思ったのです。
 しかし、主の答えは彼らの思ってもいなかったことです。イエス様は逆に青年に問います。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」。青年が尋ねたのは、「自分がすべき」善いことは何かです。しかし、主が言われるのは、あなたがなす「善いこと」ではなく、善い「お方」。このひとりの「お方」、生きておられる神です。
 イエス様がこの青年に求めておられることは、ただ一人の善いお方、あなたの神にただ従って生きてみなさいということです。それをこの青年は、一つ一つの戒めを自分が守り行うことだと思って、「そういうことはみな守ってきました」と言うのです。自分がこれまでっとやってきたこと、自分ができたことを、表に出すのです。そんな誠実な青年だったので財産も蓄えたのでしょうし、あらゆることを真剣に学んで、あらゆる善行も積んできたのでしょう。
 しかし、彼自身が積み上げてきたもの、成し遂げてきたこと、彼の正しさや善行。それらが、神の恵みを見ることを妨げているのです。彼は「自分が」何かをなすことによって永遠の命を得る、と考えていました。しかし、イエス様はこの直前で、「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。母親に手を引かれて来た幼子。何も持っていません。自分で大事なものを獲得することも、蓄えることもできず、誇るべき何ものも持っていません。ただ、愛され恵まれているのです。
 「私のところに来るのを妨げではならない」と主は言われます。神の国とは、生きておられる神と共に生きること、永遠なる神と共に生きる命に生かされることです。その命は、どんな立派な人間でも自分では得られません。それは、ただ恵みとして与えられているのです。だから幼子のように、ただそれをいただくのです。神の国に入ることも、永遠の命を得ることも人間にはできない。私たちがすることではないのです。だからイエス様は言われます。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。