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神の選びの羊

説教要旨(8月24日 朝礼拝)
ルカによる福音書 15:1-7
牧師 星野江理香

 この「見失った羊のたとえ話」は、教会も聖書もまったく知らないという方々にも知られているほど有名な話です。ですが、私の経験した中には、この話の「野原に残」された99匹は既に救われて主の弟子となった教会員や礼拝の民のことなのだから放っておいていいはずだ。それよりも迷える一匹の羊である自分の相談事を、教会員のことより主の日の礼拝のことより何より優先するのが、正しい聖書の教えのはずだと主張する方がおいでになりました。しかし、果たしてそうなのでしょうか。
 本来この話で注目されるべきは「見失った羊」に譬えられた「罪人」と、それを他の羊を野に放置してまで心と手を尽くして、見つけ出し、取り戻した時には「友達や近所の人々を呼び集める」ほど大喜びする「羊飼い」にたとえられた主イエス及び神さまです。他の福音書で主イエスが「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と仰っているように、「罪人」を見捨てるどころか、必死でとり戻そうとされる神さまの深い愛がそこに示されているからです。また、「見失った」と訳されている新約聖書の元の言葉は「死んだ」という意味をも持ちます。狼も出没するような野原で迷子になれば、羊は襲われて殺されてしまう等の可能性があるように、そのままでは滅びにいたることが必至であった私たち罪びとを、羊飼いに譬えられる神さま及び主イエスが必死で取り戻そうとされる様子が想像されます。
 これに対して「野原に残」された99匹に譬えられている「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」は、たとえ話の中ではほぼ脇役です。ですから、誰を譬えているのか等と深く考えなかったり、言及されたりする必要は殆どありません。
 また2節に、罪びとを招く主イエスを批判する「ファリサイ派の人々や律法学者たち」が登場するので、話の流れから「野原に残」された99匹は、この人たちを譬えたものではないかと受け留められがちでもあります。けれども、いったいこの世界のどこに「悔い改める必要のない」人間などいるのでしょうか。「ローマの信徒への手紙」で使徒パウロも「正しい者はいない。一人もいない」(3:10)と言っているように、私たちは誰もが「悔い改め」の必要な者です。16世紀の宗教改革者の中には、人は一生悔い改め続けなければならないと言った人もいるくらいです。主イエスを批判した「ファリサイ派の人々や律法学者たち」もけっして例外ではありません。だとしたら、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」が主イエスを批判した「ファリサイ派の人々や律法学者たち」であるはずがありません。また、同じ理由で「野原に残」された「九十九匹」が教会員やその他の礼拝の民であると判断されるはずもありません。
 神さまの永遠の選びのご計画において、私たちは既に選ばれ、見つけ出され、取り戻されて御手のうちに安らぐことをゆるされている、かつて「見失われていた」羊です。神さまにとって、私たちは誰もが、掛け値なしに愛しい神さまの羊なのです。また、そうだとしても時には道に迷うこともある、悩みを抱えることもある、小さく弱い神さまの羊です。一人ひとりが大切な一人ひとりです。
 では、「野原に残された99匹」とは誰なのでしょうか。悔い改めを必要とする神さまの愛しい羊である私たちのために棄却された「悔い改める必要のない…正しい人」とは、主イエス・キリスト、この御方以外に考えられるでしょうか。神さまは「見失った羊」である私たちを選ばれた代わりに、その99倍以上価値のある、ただ独りの罪無きお方を十字架の上に<棄却>されました。それほどに神さまは、私たちを愛してくださっているということです。「見失った羊」を取り戻し、共に生きる恵みを与えてくださるため、私たちを罪のくびきから解放し、見つけ出してくださるため、唯独りの尊いみ子を犠牲としてくださいました。ですから、私たちはその神さまに、また主イエス・キリストに、感謝と讃美を共にささげる主の日の礼拝を何より大切にしたいのです。