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ガリラヤへ

説教要旨(4月8日 朝礼拝)
創世記 第1章1~5節
マタイによる福音書 第28章1~10節
上田容功

マグダラのマリアともう一人のマリアは、主イエスの死を最後まで見届けた婦人たちです。愛する主が死んだ、という悲しみに押しつぶされ、嘆くためにイエスの墓を見に来たのです。悲観に暮れていた二人の目の前で、墓の入口に置かれていた大きな石が転がされ、主の天使は告げるのです。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。
 マグダラの女と呼ばれるマリア、福音書記者ルカが伝えるところによると、イエスから7つの悪霊を追い出していただいた婦人です。悪霊に取り付かれ、死の闇の底へと自ら落ち込んでいく、そのような生活をしていた人物であったと思うのです。そのマリアは、主イエスによって悪霊を追い出していただき、主との出会いを通して、生きる喜びを見出したのです。主によって与えられた新しい人生を、主のために捧げようと決意し、主に従って来たマリア。彼女にとって、主イエスに従うことは人生のすべてでありました。その主イエスが目の前で殺され、墓に葬られた。マグダラのマリアにとって、すべてが終わってしまったのです。
 しかし、週の初めの日の明け方に、墓を訪れたマグダラのマリアに、主の天使は告げるのです。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。イースターのメッセージは、悲しみの底で希望を失っていたマリアを再び新しい光の中へと導き出します。「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」とあるように、イースターは夜明けの出来事です。夜の闇に明るい光が差し込み始める夜明けの出来事。死の闇が復活の朝へと変えられる。神の救いの御業が、主が死者の中から甦らされることによって完成したのです。
与えられた段落に、「ガリラヤ」という言葉が2度出てきます。7節では、主の天使が、マグダラのマリアともう一人のマリアに、弟子たちにこう告げなさいとメッセージを委ねます。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。10節では、復活の主が、二人の婦人に現れ、「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と約束されるのです。ガリラヤは主イエスの弟子たちの故郷であり、イエスとの最初の出会いの地でもありました。弟子たちの信仰の原点ともいえる場所。「そこでわたしに会うことになる」と、復活の主は約束されるのです。
 主イエスの弟子たち、それは、ゲッセマネの園でイエスが捕えられたとき、主を見捨てて逃げ去った人たちです。「わたしについてきなさい」との主イエスからの召しに応え、主の後に従ってきた。しかし、最後の最後になって逃げ去った人たちです。そのように、主イエスを裏切り、自らの罪の深さに絶望して死んでいた弟子たちに、復活の主は約束するのです。
復活の主の約束の言葉「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」、これは、ご自分を裏切った弟子たちに対する、主イエスの赦しの言葉です。自分を見捨てた弟子たちを、主は「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。この赦しの言葉に、弟子たちを愛し、最後まで愛し抜かれた、主の深い愛が現されています。神に背き、神に敵対する私たちをも、兄弟として迎え入れてくださる、それがキリストの愛です。
弟子たちを、彼らの人生の出発点へと立ち返らせるように、復活の主は、今、ここに呼び集められ、イースターの恵みに与っている私たちを、もう一度、信仰のスタート地点へと招いておられます。罪に死んでいた私たちを、新しい命に生かし、新しい出発をさせるために、ガリラヤで待ち受けていてくださるのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。