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神の力強い御手の下で

説教要旨(4月22日 朝礼拝)
申命記 第26章1-11節
ペトロの手紙一 第5章6-11節
上田容功

 ペトロの手紙は、最後にもう一度、迫害の中で耐え忍んでいた人たちに対して、信仰にしっかりと踏みとどまりなさい、と呼びかけます。そのとき、この手紙は、励ましの言葉と共に、信仰者の生活とはどのようなものか、ということについても述べています。それは、「ほえたける獅子」にたとえられている悪魔に抵抗することでもある、と言うのです。
 福音書の中には、イエスが公の活動を始められる前に、荒れ野において誘惑を受けられたことが記されております。主がお受けになられた誘惑の中で、悪魔は、主イエスを父なる神さまのご意志から引き離そうとします。十字架から引き離し、救いのご計画を妨げようとするのです。私たちも日々誘惑を受けます。しかし、6節の御言葉が告げていることは、信仰者は、厳しい現実の中にあっても、神の力強い御手の下で守られている人たちである、ということです。「神の力強い御手」。併せてお読みした旧約聖書、申命記第26章8節にも出てきます。そこには、イスラエルの民の信仰告白が記されております。大地の実りを携え、主の祭壇の前に来た人たちに救いの恵みを思い起こさせるのです。神が力強い御手をもって、イスラエルの民をエジプトの国から救い出された。神の力強い御手が神の民を守り、導き、支えたのです。
 ペトロの手紙の御言葉は、神の御力を証ししています。11節では、神の御力がほめたたえられ賛美されています。父なる神は主イエスを死者の中から引き上げられた神です。死をも打ち破り、暗闇を光に変えた神の力。ペトロの手紙は、迫害に苦しむ人々に、あなたがたは神の力強い御手の下に置かれ守られている、と励ましの言葉を語りかけます。信仰者の生かされているところ、それは神の力強い御手の下です。主が十字架で御自身の命を差し出され、罪に勝利された。主が復活させられ死が呑みこまれた。勝負はすでについているという安心感が私たちを包み込みます。洗礼の恵みを受け、イエス・キリストと一つに結ばれている、今や、罪の支配ではなく、神の恵みの御支配の下に置かれているのです。
 神の御力に守られている信仰者の生き方、それは、6節にある、神の力強い御手の下で自分を低くする、という姿です。自分の力や知恵に頼むのではなく、神の御前に謙り、神さまの力に信頼する、ということです。それは、7節にある、思い煩いは何もかも神にお任せする、ということでもあります。思い煩いとは、「あれか、これか」と考え過ぎて、思いが分裂してしまうことです。自分自身でなんとかしようとすることです。
 「山上の説教」の中で、主イエスは言われます。「明日のことまで思い悩むな」。天地の造り主、すべてのものに命を与え、主イエスを死者の中から甦らされた神の御力を信じること、それが信仰です。神の御力に信頼し大らかに生きる、神の御手に守られていることに安心して生かされて生きる、それが、信仰にしっかり踏みとどまる、ということです。
 神は、私たちのことを心にかけていてくださるお方です。私たちを愛し、私たちに関心を寄せてくださる、私たちを決して見捨てることなく、御自分の方から救いの御手を差し伸べてくださるのです。神の力強い御手は、私たちを救いへと導き給う手です。私たちを罪の中から救い出し、永遠の命へと導くのです。そのために、主は十字架にかかられたのです。神はあらゆる恵みの源である神です。イエス・キリストを通して、私たちを永遠の栄光へと招いてくださった神です。父なる神は御子を死者の中から復活させられました。死をも克服された神の力。神さまの100パーセントという安心感に包み込まれ、この礼拝より始まるこの週の歩みを過ごしたいと願います。