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天の国の鍵

説教要旨(6月10日、朝礼拝)
創世記 第28章10-19節
マタイによる福音書 第16章13-20節
上田容功

 メシア到来への期待が人々の間で一段と高まる中、イエスは弟子たちを連れてフィリポ・カイサリア地方へと退かれた、と福音書は伝える。人々から遠く離れた静かなところで、イエスは、今、弟子たちに向かって、一つの決定的な問いを投げかけられた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。イエスは、世間の評判ではなく、弟子たちの心の中にある思いを聞かれる。それは、ペトロにとって人生の一大転換ともなった問いかけであった。
 シモン・ペトロは、イエスに出会う前はガリラヤ湖の漁師であった。湖で舟を漕ぎながら、私たちと同じように、どのように生きていいのか分からずに、苦しみ、悲しみ、悩みを抱えながら、日々過ごしていたであろう。そのペトロに、イエスは御自分の方から声をかけられる。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。それはペトロにとって決定的な出会いであった。その後、ペトロはガリラヤでの宣教活動においてイエスが語られた救いの言葉を聞き、イエスがなされた数々の奇跡を目の当たりにした。イエスとの出会いによって与えられた新しい人生を生きる者とされたペトロは、今、何もためらわずに告白する。「あなたはメシア、生ける神の子です」。誰もが抱えている悩みや苦しみに解決を与える唯一の答えを、ペトロは口に上らせた。それは自分に問いかけてくださったイエスという人物は、御子なる神である、との信仰の告白である。この信仰を告白することによって、誰でもがあらゆる苦難から解き放たれ永遠の命の喜びに生きる者とされる。
 17節において、イエスはペトロに向かって宣言される。「あなたはペトロ、岩である、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。陰府とは、死者の国、死の支配する領域を意味する。しかし、イエスは、陰府の力もわたしの教会に対抗できない、と宣言された。マタイ福音書28章で、復活の主は弟子たちに約束された。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。死者の中から復活された主がご臨在くださる教会には命の力が与えられている。死の力が支配する陰府に対して、復活の命に象徴される命の世界が教会である。
 私たちは、自分の家の鍵や仕事場の鍵を持っている。鍵は小さな道具だが、とても大きな働きをなす不思議な道具である。鍵を使ってドアを開けて家に入る。しかし鍵がなければ自分の家にすら入れない。天の国を開けたり閉めたりする鍵を委ねられたペトロの責任は重大である。
 ペトロに委ねられた「天の国の鍵」の務めは、具体的には、主の福音を語ることである。イエスが死者の中からの復活によって死に勝利され、天の国を開けられたように、イエスから委ねられた鍵を使って、天の国の門を開けること、それがペトロに与えられた鍵の務めである。ペンテコステの日、聖霊の注ぎを受けたペトロが大胆に語り出したことは、イエスが復活された、というメッセージであった。ペトロが語る福音を聞いて、その日に3千人の人が洗礼を受けた、と使徒言行録は伝える。ペトロの語る福音のメッセージによって、人々の前に天の国は開かれたのだ。
 天の国の鍵は、与えられた段落では、ペトロという一人の人物に授けられた。しかし、天の国の鍵はペトロだけでなく、ペトロに続く者たちにも預けられている。イエスの問いに対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたすべてのキリスト者に分け与えられている鍵である。私たちの大切な人の中にも、神の愛に気づいていない人がいる。そのような人たちを見かけたら、イエスから「天の国の鍵」が分け与えられていることを思い起したい。天の国の鍵を、神さまの御委託に誠実に応えて用いたいと願う。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。