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救いは、主こそにある

説教要旨(6月17日 朝礼拝・CSと合同礼拝)
ヨナ書 第2章1-11節
佐藤智子

 今日は、教会学校の生徒と、一般礼拝参加者とが一緒の「花の日・こどもの日 合同礼拝」です。年若い者も、年を重ねた者も、共に神さまの御前に立ち、讃美し、礼拝を献げる。「神の家族」として、神さまの御前に共に礼拝をお献げします。
 さて今、ヨナがいるところは、大きな魚のお腹の中で、そこで3日間過ごしました。ヨナは魚のお腹の中から、神さまに祈りをささげます。
 神さまは、ニネベの町の悪をご覧になり、彼らを悔改めさせるために、ヨナをお遣わしになろうとされ、ヨナを召し出されました。しかし立ち上がったヨナが向かった先は、ニネベとは逆方向のタルシシュに向かう船。ヨナは、「遠いところに行けば、神さまは自分を諦めてくれるにちがいない。」と思い、神さまの目の届かない、遠いところへ、神さまの前から逃げて行ったのです。神さまとの関係を、自分の手で打ち壊し、神さまの御前から逃げていきました。
 このヨナに対して、怒りを発せられた神さまは、大きな風を起こして海を大荒れにされ、ヨナが乗った船は、転覆と崩壊の危機にありました。船の乗組員たちは、驚き慌てて、それぞれが自分たちの信じる神に助けを求めて叫んだり、積んできた荷物を海に捨てて、この危機を脱しようとしました。そんな中、「我、関せず」と船底で寝ていたヨナも起こされて、「あなたの信じている神を呼べ」と船長から言われますが、ヨナにはそれができません。今まさしくその神さまから逃げて、この船に乗り、そうしたら船は、大嵐に見舞われているのです。大嵐は一向に収まる気配がなく、困り果てた船員たちは原因を作っている人をくじで探し出し、そこでヨナの罪があぶり出されました。
 ここで、ヨナは白状しました。自分が、神さまの命令に背いて、この船に乗ったということを。この大嵐は、神さまに逆らった自分のせいだと、伝えました。そして、ヨナは、自分を海に投げ込めば、海は穏やかになると伝えました。船の乗組員たちはの努力もむなしく、どんどん激しく海が荒れていく様子を見て、仕方なしに船員はヨナを海へと投げ込みました。
 神さまは、海に投げ込まれたこのヨナをお見捨てにはならず、神さまは大きな魚にヨナを飲み込ませ、ヨナは魚のお腹の中に置かれて、助けられました。
 ヨナは、この時初めて、神さまに見捨てられることの恐さを知りました。ヨナは神さまから、逃げて、隠れて、神さまとの関係をないものにしようとしました。神さまに造られたものであり、神さまに愛によって生かされている者が、神さまから離れて、逃げて、隠れて、その関係を断ち切ろうする。これこそ罪であります。神様に対して犯した罪の結果は、滅びであります。神さまの怒りに遭うのです。神さまの怒りを知り、見捨てられることの恐さをヨナは知ったのです。
 しかしヨナは、命の危険から助けられて、神さまの恵みに気がつきました。滅ぼされて当然の自分が救い出され、ヨナは偉大な神さまの力を知り、神さまの愛に触れて、自分の罪深さに気がつくのです。だからこそ、ヨナは方向転換をします。自分の弱さも罪も知りつつも、しかしなおも自分を本当に愛してくださる神さまと出会って、自分が本当に生きるべき道を歩み始めるのです。それは、神さまと共に歩む道です。神さまへの信頼を、ヨナは次の言葉で表現しました。<救いは主にこそある>主なる神こそが、わたしの命をつくり、愛し、導いてくださる主こそが、人間の持つ罪の悲惨さから本当に救ってくださる方だと知ったのです。
 私たちもまた、神さまの愛に触れて、自分の罪深さを知らされます。そして神さまの迫りを受けて、教えられるのです。まことの救いは、主にこそあるということを。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。