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我らの罪をも赦したまえ

説教要旨(4月29日 夕礼拝 )
マタイによる福音書 第6章12,14~15節
上田容功

 与えられた箇所で、主イエスが弟子たちにお教えになられた祈りは、罪の赦しを求める祈りです。日毎の糧を求める祈りの直後に、罪の赦しを求める祈りが続けられています。私たちは、パンなしに生きることができないのと同じように、罪の赦しなしには生きられないのです。
 さらに、マタイによる福音書の「主の祈り」では、わたしたちの負い目を赦してください、と罪の赦しを求めることが、人を赦すことよりも先に祈られています。あなたがたはすでに罪赦され、恵みの下に生かされているのだから、その恵みの中で、互いの過ちを赦し合いなさい、と主は言われるのです。
 私たちは、主の十字架によって罪赦された者です。主は、私たちを愛し、罪の中から救い出すために、ご自身の命を十字架に差し出されたのです。私たちの罪が、ここでは、神に対する「負い目」として考えられています。神に背き、罪の中にあることを、福音書記者マタイは、神に対して負債を負っている、と言い表すのです。返済しなければならない借金を抱えている、それも自分では償うことができない、それが私たちの置かれている状態です。主は、神に対する負い目を抱え苦しんでいる私たちを憐れみ、その苦しみの中から救い出すために十字架へと向かわれたのです。
 聖書は、神さまがどのようなお方であるかを証言しています。聖書が証ししている神、それは、「赦しの神」です。旧約の民の間で受け継がれ、子供たち、孫たちに語り継がれてきたこと、それは、イスラエルの神は赦される神であるという信仰です。マタイによる福音書第18章に記されている例え話においても、神さまの無限に大きな赦しが証言されております。そこでは、家来の負っている一万タラントンの借金をゆるした王の姿を通して語られています。
 一万タラントンという金額は、思いもつかないような額です。王に対して一万タラントンを借金している家来に対して、始めは、自分も妻も子も財産すべてを売り払って返済しなさい、と言うのですが、家来を憐れに思った王は、その家来を赦し、借金をすべて帳消しにしたのです。この例え話が私たちに伝えようとしていることは、この王のように、神は無限の赦しを与えてくださるお方である、ということです。神さまの赦しは限りがないということをこの例え話は伝えるのです。
 王のそのような寛大さ対して、多額の負債をゆるされた僕は、自分に対して100デナリオンの借金を負っている仲間をゆるさなかった、と例え話は続きます。王の憐みと寛大なゆるしに感謝せず、仲間を借金を返すまで牢に入れてしまったのです。当時の労働者の平均的な一日の賃金が1デナリオンでしたので、100デナリオンは100日分の賃金となります。王から1万タラントンを免じてもらったにもかかわらず、100日分の賃金の借金をゆるすことができない。私たちは、神から莫大な借金を帳消しにしていただいたにもかかわらず、自分に対する隣人の些細な過ちを見過ごすことができないのです。
 人を赦すとき、痛みが伴います。自己犠牲を経験するのです。神が私たちの罪を赦すとき、愛する御独り子を犠牲にされました。主は、私たちの罪の赦しを、ご自身の命を十字架に捧げることによって実現されたのです。神の御子が流された尊い血によって、私たちの罪は赦され、清算されたのです。私たちは、今、神の招きに応え、主の十字架の前に立たされています。罪赦された者として、「主の祈り」を共に祈るように招かれています。この祈りは、「わたしたち」の祈りです。主の恵みの内で互いに受け入れ、共に罪赦された者として、神の御前で感謝と賛美を捧げる。そのような世界への招きの言葉を、主イエスはお語りになられました。