主の平和

説教要旨(5月20日)
詩編 第93編1-5節
ペトロの手紙一 第5章12-14節
上田容功

 この手紙の差出人、使徒ペトロは、12節において、「シルワノによって」この手紙を書いた、と言っています。ペトロに「忠実な兄弟」と認められているシルワノという人は、使徒言行録に登場するシラスという名前で呼ばれている人物と同一人物であると考えられています。パウロの伝道旅行に同行し、パウロを支えた人物です。初代教会において指導的な立場にあったシルワノが、今、ペトロの言葉を書きとめ、ペトロから委ねられた福音のメッセージを、手紙という形で小アジアの教会の人たちに送り届けるのです。
 この手紙の受取人たちは「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」(1:1)でした。迫害下の困難な状況に置かれていた人たちです。信仰ゆえに家族からも誤解され、自分の生まれ故郷で暮らしていながらも、あたかも寄留者のような立場に置かれていた人たちです。そのような信仰者に対して、ペトロの手紙は、最後に「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」と神の祝福を祈るのです。
 ペトロとシルワノが最後に祈る平和とは、旧約聖書にまで遡れば、ヘブライ語の「シャローム」です。ユダヤの人たちの間で日常的に使われる挨拶の言葉です。平和がありますようにと祈る。それは、神があなたと共にいますようにと祈ることです。暗闇が地を覆っているような中にあっても、神のみ守りの内に置かれている。迫害され苦しみの中にあっても、み恵みに包み込まれている、だから平安でいられるのです。キリストの十字架によって罪赦され、神の子とされ、神との和解に入れられた。神が共におられる。このことが私たちにとっての平和です。
 この手紙の差出人であるペトロとシルワノの背後には、この2人を支えていた信仰共同体がありました。13節では「共に選ばれてバビロンにいる人々」と言われています。聖書の時代のユダヤの人々、キリスト者の間では、ローマがバビロンと呼ばれていました。キリスト教信仰に理解を示さない都で、信仰の灯が消えないように、互いに励まし合いながら耐え忍んでいたローマのキリスト者たち。そのような人たちが同じ苦しみに遭っている小アジアの教会の人たちに、平和がありますように、と執り成しの祈りを祈る。執り成しの祈りにおいて、遠く離れた教会と教会とが一つに結び合わされ、主にある兄弟姉妹が一つとせられます。
 さらに、厳しい現実の中に置かれていた信仰者たちを支えたのは、神が選んでくださったということです。13節に「共に選ばれて」とあります。教会とはイエス・キリストにおいて神が選び、神が集めてくださった者たちの集いです。14節では「互いに愛の口づけによって挨拶を交わしなさい」と勧めています。神が出合わせてくださった相手に感謝して挨拶を交わす。私たちは、互いに愛しあうことの難しさを知っています。また、心を込めて人のために祈ることの難しさを知っています。しかしながら、「平和がありますように」と祈る者として、主が私たちを用いてくださっています。そして、私たちが執り成しの祈りを祈ることができるのは、十字架にかかられた主が、今も、私たちのために執り成しの祈りを捧げているからです。私たちの信仰は主イエスの祈りに支えられています。主にある兄弟姉妹の祈りにも支えられています。イエス・キリストの執り成しの祈りに支えられ、互いに平和の挨拶を交わすことがゆるされている。互いに愛の口づけによって挨拶を交わすことがゆるされている、このような愛の世界に招かれていることを、主に感謝したいと思います。真心を込めて祈り、大きな愛を込めて挨拶を交わす、そのような日々の歩みでありますように、主の導きを祈りたいと思います。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。