ホーム | 説教 | 説教(2012年度) | 罪人を招くために

罪人を招くために

説教要旨(7月29日 朝礼拝)
アモス書 第4章4-13節
マルコによる福音書 第2章13-17節
佐藤智子

 イエスさまは、アルファイの子レビを見つけられました。レビは、下請けの徴税人でありました。同じユダヤ人でありながらも、彼はその職業ゆえに、人々から軽蔑されて、その人々の交わりから、除外されていました。イエスさまは、ご自身を取り囲む人の群れの外にいるこのアルファイの子レビを、ご覧になられました。このレビに向かって、イエスさまはおっしゃるのです。「わたしに従いなさい」と。
 自己中心性や、栄誉欲の中に留まり、そこに自分の居場所を求めていた一人の人間は、主イエス・キリストの呼びかけ、御声を聴きました。「わたしに従いなさい」。その人は、立ち上がり、そこから離れて、主イエス・キリストについて行くのです。
立ち上がってついて行く。そのようにして、レビはイエスさまに従いました。
 このようにして、イエスさまはご自身を取り囲む人の群れの外にいる人間を、呼び出されるのであります。自分とは関係がないと思っている人と、しかし主イエス・キリストはその人を知っており、その人との関係を求めて、ご覧になり、呼びかけられるのです。「わたしに従いなさい」と呼びかけられるのであります。
 イエスさまは、多くの徴税人や罪人と共に、食事の席につかれました。<実に大勢の人が>いたということと、その人たちは<イエスさまに従っていた>ということが記されています。
 イエスさまは、人々をただご自分のもとに「わたしに従いなさい」と言われて、召し出されるだけではないのです。食事を共にし、その者たちと、共におられるのであります。「食事」を、ユダヤ人たちは交わりを形づくるものとして大切にしてきました。 
 イエスさまは、ある特定の人とだけ共におられるのではなくて、このようにして、実に大勢の人をご自身のもとへと招かれ、関係を築かれるのであります。そのようにして、主であられるのです。
 ここに、ファリサイ派の律法学者が登場し、イエスさまが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、イエスさまに向かってではなくて、弟子たちに向かって言うのです。<「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」>
 イエスさまは、彼らの言葉に対して、次のように答えられました。<「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」>
 価値基準が、逆転しています。「正しい人」という存在を認めつつも、しかしここでは退けられて、むしろ「罪人」に視線が向けられているのです。イエスさまが招かれるのは、「正しい人」ではない。そうではなくて「罪人」であると言われます。
 「罪人」とは誰か。共に読みましたアモス書には、イスラエルの民の罪が描きだされていました。神さまからの裁きに際しても、民は罪を悔改めることなく、主のもとに立ち帰ることをしなかった。これが、罪人の姿であります。主なる神さまの御前にあってはすべての者が罪人であります。
 イエスさまの「罪人を招く」と言われる言葉の奥に見えるのは、主イエス・キリストの十字架であります。まことの救い主として、罪人であるすべての者をご自身の下に招いてくださるのであります。私たちと父なる神さまとの間には、十字架の主イエス・キリストがおられるのです。この方によって、私たちは神さまとのあるべき関係へ、神さまの子どもとして生きる道へと招かれるのであります。
 この朝、私たちはもう一度あの御声を十字架の許で、聞かせていただくのです。<「わたしに従いなさい」>十字架の主を見上げ、私たちを招いてくださる主の御後に従う者でありたいと願います。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。