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わたしを形づくるもの

説教要旨(6月10日、夕礼拝)
ガラテヤの信徒への手紙 第1章1-5節
佐藤智子

 権威を持ち、ユダヤ主義化していたエルサレム教会から派遣されてきたユダヤ人キリスト教伝道者が、ガラテヤの教会を混乱させていたようです。ユダヤ人キリスト教伝道者は、異邦人キリスト者に割礼を受けることを強要し、律法を遵守させようとしていました。ガラテヤの教会の人々は、律法や割礼について伝えられ、キリストの福音から、律法や割礼に依り頼むようになっていってしまったのでした。人々の言葉、人々の態度、社会や環境、左右されて、教会はそれらを拠り所としていくようになっていったようなのであります。さらに、ユダヤ人キリスト教伝道者は、パウロを批判していました。エルサレム教会から「福音」を受け、エルサレム教会によって使徒とされたのにも関わらず、パウロが律法なき福音を語り、エルサレム教会のユダヤ教的伝統を犯したと、みなしていたようであります。パウロは、このガラテヤ教会の異変を知り、手紙を送りました。   
 今日、私どもの教会においても、教師を立てるという業を行います。しかしそれは、主イエス・キリストのご委託にお応えしてなされるものであります。まことの権威者であられる主イエス・キリストの下に、教会はその働きを行うのであります。
 パウロは、主張します。<人々からでもなく、人を通してでもなく>、イエス・キリストによって、それも究極的には、キリストを死者の中から復活させた父である神によって、使徒として遣わされている者、それが私パウロである、と言うのです。
 3節から5節の「挨拶」の部分は、祝福の言葉となっています。この中でパウロは、「わたしたちの父なる神と、主イエス・キリスト」を、指し示すのです。さらに、「恵み」という言葉によって、キリストにおいて表された神の無償の愛、具体的には救いの出来事を指し示します。「平和」という言葉によって、キリストの救いの出来事なしには成り立たない「平和」を表しています。神に敵対していた私たちを、和解に導くために、十字架で私たちの罪を贖ってくださったのは、主イエス・キリストでありました。御子をこの世に送ってまで、私たちとの和解を望み、和解をしてくださったのは平和の神である、父なる神であられました。
 さらにパウロは次のように言っていました<キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。>
 パウロは、ガラテヤ教会の現状を知り、「悪の世」という言葉と複数形の「罪」という言葉を用いたのでありましょう。既に罪の支配、悪の世から、救い出されたものでありながら、なおもそこへと向かい、留まろうとするガラテヤ教会の人々。それを先導するユダヤ人キリスト教伝道者。そのようにして救いから離れていこうとする「罪」を、あえて複数形で記したのかもしれません。
 私たちは、既に救いの出来事に生かされています。それにも関わらず、権威を神の手から奪いとり、自分の手中に収め、それを勝手に振りかざし、人々につまずきを起こさせ、神によって与えられた恵みと平和のうちから、出ていくのです。悪が支配する世、数え挙げられる罪は私たちのうちにもあるのです。
 しかしそんな私たちに、救いの出来事が起り、なおも起り続けています。私たちは、人々からでも、人によってでもなく、その全存在を、キリストに依っているのです。律法にも、割礼にも依らない。私たちを形づくるのは、律法でもなく、人の言葉でもなく、人の評価でもなくて、キリストであります。キリストの死であります。キリストの死がこの身体に現れており、キリストの復活の生命を、私たちは生き、また生かされているのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。