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聖霊のうめきによる偉大な助け

説教要旨(9月2日 朝礼拝)
詩篇 第51編12-14節
ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
近藤勝彦

 詩篇51編で「自由の霊」が語られ、 ローマの信徒への手紙 第8章では「聖霊がうめきをもって執り成して下さる」と記され、 そのことにより私達は自由へと解き放たれ「万事は益となるように共に働く」という素晴らしい御言葉が続く。 そして「義とされた者達に栄光をお与えになった」という救いの完成の御言葉が記されている。 「万事は益となるように共に働く。 義とされた者達に栄光をお与えになった」と記す聖書は現実を離れた事を語っているのではなく、 むしろ今が苦しみの時であることをよく知っている。 「うめき」とは苦しい状態に置かれた中から発せられる言葉にならない言葉である。 しかし本当に苦しい時には、 何をどう苦しんでいるのかさえ明確に表せず、 他者に理解できる言葉で伝えられない。 私も青年時代にそんな経験をした。 アポイントメントを取り、 いざ相談となった時に5分経っても10分経っても言葉が出てこない。 牧師は仕方なく「祈るしかないではないか」と言われたが、 どう祈っていいのか分からない。 そういう時がある。 否、 いつでもそれがある。 弱い存在であり不完全でありながらプライドの高い私達は、 いつもそういう状態を根本に抱えているのではないだろうか。 そのような私達に対して聖書は26節で「同様に霊も弱い私達を助けて下さいます。 私達はどう祈るべきか知りませんが、 “霊”自らが言葉に表せないうめきを持って執り成して下さるからです。 」と語る。 苦しみのある時うめきのある今、 将来の偉大な救いの完成を求めて被造物も人間もうめく時、 霊なる神が私達の中に共に居てうめいて下さる。
 初代教会から現代の私達に至る迄、 信仰に入れられながら祈れない時がある。 祈っている時にも、 どう祈るべきか知らず真実の祈りになっているかどうか分からないのではないだろうか。 主イエス・キリストの名によって祈り、 アッパ父よと祈る。 それを主イエスが可能にして下さっていると同時に、 聖霊によって主イエスを我が主と信じる信仰を常に新しく与えられ、 聖霊によって祈る者とされることがなければ、 私達は祈りが祈りになっているのかという問いから逃れることはできない。 
 聖霊によれば、 神様と私達の会話には、 神の右に上げられた主イエス・キリストの執り成しがあると同時に、 内なる御霊のうめきによる助けがある。 三位一体の神ご自身の会話があって、 その中に私達は入れられているという神秘な会話がこの個所に証言されている。 私達は祈る恵みを与えられ、 祈ることを許されているのだ。 
 イギリスのある歴史家は神の摂理があることを信じ経験することは重大であると言う。 神の摂理があるということは、 最悪のことからも善が引き出されるという信仰が含まれる。 思い描くのは、 イスラエルが国破れ神殿が崩壊し主だった人々が砂漠の中をバビロンへ連れ去られる最大の悲劇の時代。 しかし、 その時、 第二イザヤが召し出され、 エレミヤが預言者として立てられ、 エゼキエルが生み出される。 そして主イエス・キリスト到来への待ち望みがイスラエルに生まれた。 イスラエルの悲劇の時代は人類史上偉大な宗教的深まりを見せた。 個人の人生も同様で、 摂理の信仰にしっかりと立ち、 主イエスの十字架、 甦りの力の下に歩む時、 摂理の信仰は確かな経験となる。 挫折の時も神の赦しの中で創造的な時と変えられる。 悲惨なことが神の恵みの時に変わるのでなければ「万事が益となって共に働く」ことは出来ない。 御霊の執り成しは私達を神と結び合わせ、 神の御心ご計画を進ませて下さる。 信仰生活の根本に、 聖霊のうめきによる偉大な助けがあることを確信しなければならない。 その助けを信じているのがキリスト者である。 祈りの言葉が口ごもる中で、 御霊の偉大な助けのあることを信じ祈りの生活を続けていきたい。 
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。