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キリストの思いを抱いて

説教要旨(8月12日)
創世記 第2章7節
コリントの信徒への手紙一 第2章6-16節
上田容功

 パウロは、ここで2種類の知恵について語る。一つはこの世の知恵であり、もう一つは神の知恵である。明らかなことは、パウロはこの世の知恵に対して否定的なことである。コリントの教会の人たちは知恵を誇っていた。そのような中、パウロは自分を誇るこの世の知恵ではなく、神の知恵を語る。それは、7節において「隠されていた、神秘としての神の知恵」と呼ばれている。神秘と言われているように、人の目には隠されている神の知恵である。
 神の深い知恵とは、7節の御言葉によると、天地が造られる前から定められていた救いのご計画である。そして、パウロは8節において「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」と述べ、十字架に神の栄光が現された、十字架の主は神の知恵の現れである、と語る。
 フィリピの信徒への手紙第2章6節から8節には、キリストは神と等しい身分であるにも関わらず、私たちと一つになるために低く謙られた、と告白されている。神の御子が十字架の死に至るまでご自身を低くされた。それが神の救いの方法であった。このような救いの計画は誰にも思いつかない。神が愛する御独り子を犠牲にしてまでも、私たちを罪の中から救い出そうとすることが分からないのである。
 このように、神の知恵とは人に仕える知恵である。主の十字架にあらわされた知恵は、ご自分を犠牲として捧げ尽くすことによって愛する者を生かそうとする神の知恵である。仕えること、与えること、捧げること。これらは、この世の価値観から見たら意味のないことかもしれない。与えるよりも、受ける方が幸いであると思われているこの世において、ご自分の命さえも惜しまず捧げ尽くすことによって、私たちを生かそうとする神の御心。人の理屈では思いもつかないような愛の行為。それが、人の目には隠された神秘としての神の知恵である。
 10節より、与えられた段落の後半に入る。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。神の霊以外に神のことを知っている者はいません」。神にしか知られない神の知恵が、神の霊の働きによって、私たちにも示された。
 「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました」。私たちは、水と霊による洗礼を授けられ、一人ひとりに聖霊が注がれている。聖霊の働きによって、「イエスは主である」との信仰告白をなすのである。聖霊に満たされたとき、主イエスが赦されたのはこの私の罪であったと分かるのである。神の霊に満たされた人が、15節では「霊の人」と呼ばれている。それは神の霊が注がれ、神の知恵に心の目が開かれた人である。
 最後に、パウロは言った。「わたしたちはキリストの思いを抱いています」。神の深みをも究める神の霊を注がれた信仰者は、神の御心を感じる心が与えられている。キリストの思いを抱いて生きるとは、キリストの心を心とすることである。キリストの思いとは、フィリピの信徒への手紙にあったように、神と等しい者であることに固執せずに、ご自分を無にして、僕の身分になられた、という謙りの心である。聖霊が注がれた人は自分の知恵を誇らない。人を仕えられるのではなく、人に仕えることを喜びとする。自分が犠牲となったとしても、相手が喜ぶことを自分の喜びとする。それは私たちの内に宿る聖霊の御業である。そして、聖霊に満たされた人は、溢れる思いで神の恵みを証しする。自分の知恵によってではなく、聖霊が教えてくださる言葉によって確信を持って福音を告げ知らせる。聖霊の働きを信じ、共に主の福音を宣べ伝えるために、この礼拝より遣わされたい。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。