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十字架の言葉

説教要旨(7月22日)
エレミヤ書 第9章22-23節
コリントの信徒への手紙一 第1章18節-第2章5節
上田容功

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」この一節は、コリントの信徒への手紙一の主題とも言える聖句である。十字架の言葉は神の力である、という福音のメッセージを語るとき、パウロは、この世の知恵と人間の言葉の虚しさについても語る。「世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした」。この世の知恵は中途半端な言葉にしか過ぎない。人を救う言葉ではない、とパウロは述べる。
 人の知恵に対して、神の救いのご計画は完璧である。しかし、最も大切な御子を十字架に与え尽くしてまでも私たちを救おうとされる神の御計画は、人の知恵や言葉では説明できない。だからこそ、神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになられた、とパウロは語る。パウロも、自分の宣教方法について次のように述べている。「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」。パウロは、ただ一つのことだけに集中する。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」。
 聖書の時代、十字架刑は奴隷などの身分の低い人たちを処刑するときに用いられた方法であった。残虐で屈辱的な処刑方法である十字架刑。当時の人々にとって、十字架は見るのも汚らわしいものであった。十字架につけられたキリストは、愚かさ、弱さ、つまずき以外の何ものでもない。「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」。力強いメシアを待ち望んでいたユダヤ人にとって、十字架につけられて殺された者が救い主であるはずがなかった。哲学的な真理を追い求めるギリシア人にとって、犯罪者として十字架につけられて死んだ人に真理を見出すことはできなかった。
 ユダヤ人、異邦人にとって、十字架の出来事は愚かなものである。しかし、神は十字架につけられたキリストの愚かさによって信じる者を救おうと決意された。神の目から見たら、十字架こそ完璧な救いの方法である。この救いの方法を、パウロは「神の愚かさ」と呼んでいる。
 「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」。このメッセージを伝えるために、パウロは、コリントの教会の人たちに召されたときのことを思い起こさせる。コリントの教会の人たちは、決して、社会的な身分の高い人たちでもなく、教養の高い人たちでもなかった。神が選ばれる者は、無学な者、無力な者、無に等しい者である。これが神の選びの真理である。神が選び、神が召し出す。だからこそ、神の選びは、人間のどんな条件にも影響されない。
 パウロは、神が、世の無力な者、無学な者、無に等しい者を選ばれた理由を次のように述べる。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」。私たちが誇ることのできるものは、自分の力や家柄ではなく、神が選んでくださった、という神の選びである。私たちの誇りの根拠は、神の憐れみと慈しみである。神が、キリストの十字架によって、私たちを罪の中から贖い、神の御前に義しい者とし、聖なる者にしてくださった。それほどまでして神は私たちを愛してくださっている。世間からは全く見向きもされなくても、神の目には、愛する独り子の死に価するほどにも尊い存在である。これが、私たちに与えられている「誇り」である。この世的に見たら無価値にしか見えない十字架が、私たちに命を与え、私たち生かす。主の十字架によって罪赦され、キリストと一つに結ばれ、神の子とされている。だからこそ、私たちは、自分自身ではなく、主の十字架を誇る。パウロは、預言者エレミヤに託された言葉を思い起し言った。「誇る者は主を誇れ」。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。