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闇の民に愛の光

説教要旨(9月9日 朝礼拝)
イザヤ 第9章1節
ヨハネの手紙一 第1章5-10節
川染三郎

 富士見町教会から招聘を受けたとき、教会は神の御心によって建てられており、神がお遣わしになった独り子イエス・キリストが、教会の頭として今も教会の中で生きて働いているという確信がありました。「教会はキリストの体であり、キリスト・イエスが救いの恵みの御業をなさる場である」(エフェソ1章23節参照)との証言に、支えられました。
 教会にはさまざまな問題があるが、パウロは信徒が罪を赦され、義とされ、神の子とされた喜びに満ちている事実を見ている。これが私たちの教会の現実の姿である。
 私たちは今、この礼拝でイエス・キリストが救いの業をなさる場に招かれている。他でもない神が、私たちを招き、御子キリストにある救いの恵みを私たち一人一人に注いでくださる。この神の招き、恵みの場に招かれた感謝の思いをもって、礼拝を始めよう。
 教会の課題は、この救いの事実を礼拝で共有することである。この礼拝において生けるキリストが私たちを愛し、尽きることのない愛の力をもって救い出し、永遠の命を与えてくださっているという事実を、私たち一人一人が共有することである。
 神は、御子イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの人生に介入してくださった。一方的な恵みの働きで私たちを罪の支配から救い出してくださった。私たちの死の闇を引き裂いて、価高く、貴い者(イザヤ43章4節参照)、つまり神にかたどって造られた本来の人間として、この礼拝で回復してくださっている。どんなに私たちが貧しく罪深いものでも、御子イエスを信じ、頼るなら、たとえ、からし種一粒ほど信仰であっても、イエス様の働く場所をイエス様に提供するなら、主イエスは絶大なる愛の御業を私たちの内に働かせてくださる。
 ヨハネの手紙一では、グノーシス派の人々に正しい信仰へ立ち帰るように呼び掛けている。彼らは、神秘的な体験によって神様に結ばれているので、どんなことでもしてよいのだと言う思いを持っていた。これは、思い上がりである。私たちは絶えず十字架のキリストの前に立ち、悔い改めて、絶大な愛の御業がなされる場となることが求められている。それによって、私たちの中に十字架のキリストにある愛の光が輝き続けるのである。
 神の独り子イエス・キリストの十字架によって、私たちは、罪の闇から救い出された。神は罪人を闇から救い出す光である。ヨハネ福音書8章12節「私は世の光、私に従う者は暗闇を歩まず」と証言されている。悔い改めて御子イエスに立ち帰る者は、その内に命の光を持つと約束されている。
 癌末期で痛みが酷く、死の不安に呻いていた方のお見舞いをしたことがある。付添いの看護師が抑えつけなければならないほどの痛みのある方と、聖書を読み、讃美歌を歌い、祈っているうちに穏やかになって来る。この方は、主イエスが人生に介入してくださった事実を自分の内に見出した。復活の主イエスが伴ってくださって、命の光が死の闇を引き裂いて神の愛の中に生きる真の命を体験した。
 私たちは、神の愛の光を宿す者。たとえからし種一つほどの小さな場所でも、救い主イエス・キリストを信じ委ねるならば、主イエスは十字架にある救いを完全に成し遂げてくださる。それゆえ、私たちは神の子としての資格を与えられ、永遠の命に生きる者として造り変えられる。神に愛され価高く、貴い者として私たちは生かされる。私たちは、礼拝に御臨在の十字架の主イエスに信頼し、委ねるなら、御子イエスは絶大な愛の力によって、闇の子から救い出し、光の子としてくださる。今こそ、礼拝によって命の光を共有する信仰共同体を形成することが必要ではないか。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。