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なぜ怖がるのか

説教要旨(8月26日 朝礼拝)
イザヤ書 第7章1節-14節
マタイによる福音書 第8章23節-27節
山本圭一

 日常の生活の中にいい知れない不安の数々が降りかかっている。それが私たちの生活の実情ではないだろうか。原子力発電、学校でのいじめ、体を蝕む病気、若者の自殺、老人の孤独、これらの怖れは爛熟した文明の怖れである。これらを見つめ直して聖書に記された怖れを旧約聖書から取り出してみたい。イザヤ書の時代は紀元前7世紀、その頃エルサレムを取り囲む状況はひっ迫していた。アラムとエフライムが同盟を結んで王国に侵入しようとしていた。そのときのアハズの心は聖書に書いてあるように森の木々が揺れるように動揺した。
 ここで主はイザヤにメッセージを伝えられた。アハズに会うことである。アハズは敵の攻撃を乗り切るために新しい貯水池を造ろうとしていた。しかし主は命を与え生きさせる方はただひとりであることをお示しになった。イザヤはアハズに伝える。「落ち着いて、静かにしていなさい」。この言葉を覚えていてほしい。神の意志は揺らぐことはないというイザヤの言葉を信頼するならばユダは救われる。神の意志に帰りなさい。困難な状況において静けさの中にとどまる。これを現代に置き換えて考えてみたい。
 明治以来、日本は近代化を進め、様々なスローガンを掲げそれに従い、戦争へと突入していった。そして徹底的な破局を迎えた。「あの戦争とは何だったのか」ということは戦後の繁栄の中で徐々に忘れられていった。今、イエスが山上の説教で言ったことを心に刻まなければならない。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。平和の実現にかかわること、これは教会とキリスト者の業である。
 8章のほうに目を移す。そこには嵐の中で眠っておられるイエスがいる。それは動と静の対比である。弟子たちは苛立ちを覚えたことであろう。「イエスは役に立たないのではないか」という考えさえ起こったかもしれない。しかしイエスは眠っておられる。このことが示しているのはイエスは父との絶対的な信頼の中に居られたということである。自分自身の都合によってではなく、穏やかな状態のときではなく、困難の時こそ主との関係に生きていた。
 嵐の中で弟子たちは神の力に対して鈍感であった。その鈍感、無感覚こそが臆病を生む。イエスが「言われた」とは原文では現在形の意味である。主は今、語っている。私たちが思うのは嵐の中にある主ご自身の静けさである。それでは最後に私たちの現代の怖れについて見なければならない。
 それは3月11日の大震災とその後の問題である。原発が爆発し、多量の放射線物質が拡散した。このような課題に対しイザヤが王に求めた「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない」というメッセージは私たちに大きな光を与える。新約の時代のキリスト者たちも「主がともにいてくださる」という約束に固く立ちつづけた。パウロの言葉を借りればコリント書6章2節「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」ということである。「静かにしていなさい」これは何を意味しているか。人の世には答えの出せないいかなるものも常に吟味され心になければならない。「なぜ怖がるのか」というイエスの言葉にはこの世の動乱に対して腰の据わった態度が準備されている。イエスが示してくださった信仰は今を生きる私たちの信仰による決断をも促すことになる。世俗的な営みに対して世俗的に対応しながら神と人とに対する責任を冷静に行う必要がある。その場合、ありきたりな常識や社会政治によって考えるわけにはいかない。聖書のみ言葉に帰り、イエス・キリストの言葉に帰り、福音の光のもとで考えなければならない。私たちの行為が福音の証しになることを願いつつ我々は伝道に生きていきたいと思う。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。