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天に富を積む

説教要旨(6月17日、夕礼拝)
マタイによる福音書 第6章19-24節
上田容功

 与えられた段落には、それぞれで完結した3つの話が「富」という主題のもとに並べられている。天に富を積むか、地上に富を蓄えるか。神に信頼して生きるか、富を頼りに生きるか。イエスは、弟子たちに対して、あれか、これか、という、二つに一つの在り方を示された。
 ここでの「富」とは、金銭のみならず私たちが努力して積み上げてきた評価や実績、蓄えてきた知識でもある。私たちは、多くの富を集めて安心を得ようとする。お金があれば幸せになれると思い、ひたすら貯めて自分を守ろうとする。しかし、イエスは言われる。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出すこともない」。この地上のものは、いつかは虫が食い、さび付く。いつ何が起きるか分からない。移ろいやすい地上で生きている私たちを本当に守るのは、この世の富ではなく神の恵みである。この地上に富を積むことは、決して幸せを保障するのではないし、安定をもたらすのでもない。そのことを知っていながらも、つい、この世の富に心を奪われ、富を地上に積み始めて安心を得ようとするのが私たちである。
 イエスはここで、信仰さえあれば富は不必要だと言っているのではない。テモテへの手紙一第6章10節に、次のようなみ言葉がある「金銭を愛することは、すべての悪の根である」。問題は、金銭そのものではなく、金銭を愛することである。金銭に対する執着心こそが破滅へと導く、と聖書は教える。富は、本来的には神が与えてくださる祝福のしるしである。人を滅ぼすのものではなく、多くの善きことを生み出す可能性を秘めている。だから、イエスはここで、神が与えてくださる富をいかに使うかということを話される。
 イエスは言われる。「富は、天に積みなさい」。「天に富を積む」とは、神に思いを向けて富を用いる、ということである。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。心は体の中心であるばかりでなく、その人の全存在の中心、思いや気持ちが宿るところである。中心である心が何に向いているのか。天の富へと向いているか、地上の富に向けられているか。そのことによって、人の生き方も自ずと決まってくる。
 主は、思いを神へと向け、心を神と結び付けて富を生かしていくように勧める。金銭に執着するのではなく、神の御業のために心を込めて差し出し、自分のために独り占めするのではなく隣人と分かち合っていくとき、富は神の御前で豊かに用いられる。
 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」。目は体の一器官であるだけでなく、心の窓として人の心を映し出す鏡である。目を見れば相手の考えていることや、相手の性格や人柄が分かる。喜び、悲しみ、といった感情はすべて目に映し出される。心が明るければ目も明るく輝き、落ち込んでいれば目に輝きがない。
 「澄んでいる」とは、寛大な、ということを意味する。与えられたものを分かち合おうとする大らかさ、それが「澄んだ目」である。その反対の「濁った目」とは、物惜しみする心の表れである。信仰生活における物惜しみしない気前の良さとは、時と財と力をすべて神に捧げるということである。そのような信仰者の目は神に対して真っ直ぐに向けられている。地上の富に惑わされるのではなく、ただ一つのものを見つめる眼差しが澄んだ目である。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。神に仕えるか、富に仕えるか。神を礼拝するか、富を礼拝するか。私たちを守るのは地上の富ではなく神である。私たちの心を神に向けさせ、私たちを神の愛と一つに結び合わせるために、主イエスは十字架でご自身の命を差し出された。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。