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天の御心が地に

説教要旨(4月7日 朝礼拝)
マタイによる福音書 6:9-10
牧師 藤盛勇紀

 神の「御心」とは何でしょうか。主の祈りで、私たちは神の「御名」が崇められるよう、「御国」が来るように求めています。そして「神の御名」において、神がどんなお方であるかを知りました。神は「インマヌエル」の神。それはイエス・キリストにおいて明らかに示されました。神はイエスにおいてご自身を現し、ご自身を与えてしまうほどに、私たちと共におられる。だから、かえって人間はこのお方の名を崇めることができませんでした。しかしこのお方において、「神の御心」も知らされたのです。その御心は愛であり恵みだとも言えます。
 なぜ神は私たちを恵まれるのでしょうか。その理由、その御心はどこで知られるのか。それはまず「天」だと答えることができます。「天になるごとく」と祈れと主が言われるのです。ルカにはこの祈りはありません。しかし「あなたの御名が崇められ、あなたの御国が来ますように」と祈ったなら、そこにすでに「天のあなたの御心が地にも行われますように」との祈りが含まれていると言えるでしょう。
 イスラエルは、神と共に歩む歴史の中で、神がどんなお方なのかを知って行きました。そしてメシア到来の期待と共に「神の国」のヴィジョンも次第に示され、イエス様の時代にピークに達します。ところが、メシアであるイエスによって打ち立てられるはずの神の国への期待は、イエスの処刑というかたちで打ち砕かれてしまいました。
 メシアはどんなお方で、神の国はどんなものか、人間は見誤ったのです。人間が勝手に解釈して思い描いたからです。だからイエス様は人々から拒絶されてしまいます。神の国は、メシアが十字架で惨殺されることを通して来るなど、誰も思いもしません。「私たちの見たことを誰が信じ得ようか」(イザヤ53:1)。
 神の「御名」も「御国」も「御心」も、人間の願望や信心などからは知り得ません。「御心」は「天」から「地」へと来ることでしか知り得ないし、触れることもできない。主の祈りは、人間には不可能な祈なのです。
 主の祈りにおいて、自分の願うもの、こうあって欲しいこと、自分が理想とするもの、価値を置いているもの、それらが止まなくてはならない。「自分」が砕かれなければならない。「自分」を捨てなければならないのです。
 そんな祈りを誰ができるでしょうか。その祈りがこの地上で現された唯一つの例を、私たちは知っています。イエス様はゲツセマネで祈られました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」。この時弟子たちは皆眠りこけていますが、主は繰り返し祈られました。この直後、弟子たちはイエス様を裏切り見捨てます。しかし主は、それが父の御心であることをご存じでした。
 人としてのイエス様は、他の誰も決して味わうことのない苦悩を引き受け、ただ独り祈られました。この祈りは、この時のイエス様にしか祈れない祈りです。なぜなら、神から見捨てられる本当の絶望も究極の孤独も、イエス様だけが味わったからです。眠りこけてしまう弱い者を後ろ手に守るように、イエス様だけが祈り、死の杯を飲まれた。だから私たちは真の絶望も孤独も死も、味わい得ないのです。
 イエス様だけが全てを失い、全てを奪われ、究極の貧しさに落とされました。それによって私たちが豊かになるためです。ここに神の愛と恵みが現されました(2コリント8:9)。私たちはこの恵みを知っているのです。「御心の天になるごとく」の祈りは、自分がいただいた恵みは、イエスの十字架を貫いて与えられていることを知っている者の祈りです。
 いまイエスは私の内におられ、私を生きてくださっている。この内なるイエスは、十字架につけられたお方です。天の御心は、今私たちの内に命の霊として生きておられるキリストに他なりません。「御心の天になるごとく…」と祈り、内なるキリストと交わりながら、御心が私を通してこの地上に現されます。神は、その恵みの御心を知っている私たちを通し、私たちを生かし用いて、ご自身とその恵みをこの地に現したいのです。