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あなたの信仰があなたを救った

説教要旨(10月27日 朝礼拝)
マタイによる福音書 9:18-26
牧師 藤盛勇紀

 二つの奇跡が描かれています。「ある指導者」は、マルコやルカによればユダヤ人の会堂長ヤイロ。人々から尊敬もされていた彼の娘が死んだ。ところが、イエスはその娘を起き上がらせた。その出来事に食い込むように、ある一人の女の癒しの奇跡が行われます。
 ヤイロの娘は、ルカでは「十二歳ぐらいの一人娘」。ようやく大人の仲間入りという時、死の影が差した。ヤイロはイエスの許にひれ伏します。「娘はたった今死にました。おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生きるでしょう」。イエスが手を置けば生き返るのか。群衆は緊張したでしょう。
 すると、ある女がイエスに近づき、服に触れます。イエスはそれに気づき、足を止めてしまいます。群衆に紛れてイエス様の服の房に触れた女に言われます。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」。その時。彼女の病気が治った。どこの誰とも分からない女と会堂長ヤイロ。二人とも、もう何をも頼りにできない人たちです。手は尽くしたが、人の力も可能性も尽きている。
 そんな時、「それでも幸い、私には信仰がある。人の力が尽きた時こそ、信仰の力が発揮される時だ」と頑張るでしょうか? ヤイロとこの女はどうか。彼らは信仰の力を発揮したのでしょうか? 確かに、イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救った」。しかし、彼女の持っていた信仰がなした業だとか、彼女の信仰的な力が発揮されたということではないでしょう。彼女は少なくともこの場では、自分の信仰など考えてもいないでしょう。ただ苦しかった。希望も力も尽きた。ただイエスにすがろうと手を伸ばした。自分の病気が治ったことを感じても、ただ驚き戸惑っただけだったでしょう。
 ヤイロはどうか。娘は死んだ。ただイエスのもとに来て身を投げ出したのです。周りの人々もできることは何でもやったでしょう。でもあらゆる努力が尽きた。彼はただイエスの足元にひれ伏します。「このお方なら…」。馬鹿げていると思われるかも知れないが、「このお方なら、娘を生かしてくださる」。
 イエス様は直ちに立ち上がってヤイロの家に向かいます。すると、「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」がいます。死を嘆き悲しんでいる人々、さらに悲しみをかき立てるような人々に囲まれていました。そこでイエス様は言われるのです。「あちらへ行け」。これは、どけ!引っ込め!です。なぜなら「少女は死んだのではない。眠っている」のだから。素人判断でも、確かに死んだ。だからヤイロも、娘の死を認めるしかなかった。しかし、イエスはそんな人間の悲しみに対して「どけ、引っ込め」と言われるのです。ルカでは「泣くな」。マルコでは「恐れるな」。泣くしかない人々に「泣くな!引っ込め!」と。ここに命の主が来ておられるから、真の命そのものである方が、来ておられるからです。
 しかし人々は「イエスをあざ笑った」。これが人間の自然な反応です。「死んだのだ。悲しむしかないだろう。『眠っている』?そんなお慰めは要らない」、もう終わったのだ。
 どうにもならない事実を否応なしに認めざるを得ないことがあります。「恐れるな」と言われても恐い。しかし、本当に恐ろしいのは、恐れや悲しみや絶望に自から突入してしまうことです。不治の病と言われたら誰でも恐れます。ところが、死を恐れるその人が、死にたがるということが起こるのです。深い恐れや絶望は、時に人を転倒させます。死と恐れのスパイラルに捕らえられ突入してしまう。
 私たちが本当に知るべきは死の恐ろしさやどうにもならない絶望的な事実そのものより、そこに来ている方を知ることです。近づいて来ておられるお方の言葉を聞くことです。ヤイロも女も、もうどうにもならない状況です。しかし、そこにイエスがおられ、お言葉があったのです。人の力は尽き、信仰も折れてしまっても、この方とその言葉があった。ヤイロも女性もこのイエスを信じたのです。