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信仰に実体が現れる

説教要旨(8月18日 朝礼拝)
マタイによる福音書 8:1-13
牧師 藤盛勇紀

 イエスは5章から続いた「山上の説教」を終えられました。その説教を聞いた群衆は「非常に驚」き(7:29)、「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」。その山の麓で、群衆の中にいなかった2人の人に焦点が当てられます。「重い皮膚病」の人と「百人隊長」。彼らはユダヤ人から見ると、救いや信仰とはかけ離れている人たちですが、イエスは驚きをもって彼らをご覧になりました。
 百人隊長は、ユダヤを支配していたローマ軍の指揮官。ユダヤ人から見れば、神の選びからも、救いの約束からも漏れた異邦人です。ところが百人隊長は、そんなユダヤ人たちがメシアではないかと期待を寄せ始めたイエスに、なぜか全幅の信頼を寄せています。「主よ、ただ一言おっしゃってください」。彼は、磁力に引きつけられるように、権威あるイエスの命と力の内に入ってしまっています。
 一方「重い皮膚病」の人はユダヤ人ですが、汚れた者とされ、ユダヤ人共同体から遠ざけられ、人々と接触することさえ許されませんでした(レビ13章)。ところが、彼はただイエスに近づくため、群衆の中に自らをねじ込むように入って来ました。「主よ、御心ならば(あなたがお望みなら)、私を清くすることがおできになります!」。彼は「主よ私を清めてください」と願ったのではありません。
 イエスはその他何も聞かず、何のやりとりもなく、彼に触れて言われました。「よろしい」とありますが、「望む」です。「私は望む!清められよ!」。そしてそれが起こった。彼もイエスの権威と力の内に入ったのです。だからイエスの望まれることが現れ出ました。
 百人隊長の僕がひどく苦しんでいると聞いたイエスは、「私が行って、いやしてあげよう」と言われましたが、百人隊長はこう答えます。「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください」。彼は「主よ、来て、癒やしてください」とは願いませんでした。ただ真に権威あるイエスの「一言」だけを求めたのです。
 彼の言葉にイエスは感心します。これは「驚いた」です。「イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない」と。イエスはさらに、大勢の人々が天の国に入る時のこと、終わりの時のことを語られました。
 ある時イエスは言われました。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)。イエスが再びこの世に来られ、救いを完成される時、主が期待しておられるのは「信仰」なのです。それを今、見ている。だから主ご自身驚いておられます。見よ、ここに信仰がある!と。「信仰」という言葉が出てくるのは、これが最初です。
 ここに何があるのか。カギは「一言」。皮膚病の人は、自ら発する一言にイエスに対する信頼が現れ、百人隊長は、イエスの一言に委ねました。ここで《私の信仰》と《イエスの信実》が一つになっています。それをイエスは「信仰」と呼ばれました。そこに、彼らが望んでいた癒やしが実際に起こされました。彼らにとっての救いが具現化されたのです。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。直訳的には「信仰とは望んでいる事柄の実体、見ていないものの確証」です。信仰に実体があり確証がある。まさに皮膚病の人と百位人隊長は、信仰において実体を得、見ていない事実を確かめていました。だからイエスの望みが現される「一言」だけで良かった。そして、命と力であるイエスの言葉によって、実際に現出したのです。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ 11:24)。
 二人は実際に癒やしの実現を経験しました。しかし、今の私たちは、はるかに優ったもの、イエスの贖いの御業による救いが与えられ、イエスの命そのものが私たちの命となっています。復活されたイエスの「命の霊」が、私たちの内に新しい命として息吹き込まれています。この方が私たちを生き、イエスご自身が望み、私たちの望みを生かし、実際に現してくださるのです。ここに主の御心が成って行きます。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)。