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インマヌエルの神

説教要旨(12月22日 クリスマス礼拝)
マタイによる福音書 1:18-25
牧師 藤盛勇紀

 マタイは、イエス・キリストの誕生の次第を語るにあたり、マリアよりもヨセフに注目します。ヨセフは比較的早く亡くなったのか、この1章と2章の後は登場しません。実に影が薄い人です。マリアとヨセフは、旧約聖書に名前も出てこないナザレの村の名も無い若い二人。そのマリアが身ごもります。彼らはまだ婚約中。「正しい人」ヨセフの苦悩はどれほどだったでしょうか。「まさかマリアが姦通?いや、人には言えない犯罪に巻き込まれたのか」。いずれにせよ姦淫の罪に問われる可能性がある。マリアを疑いたくはないけれど、「まさか」という思いが浮かんでくる。正しい人だからこそ、ヨセフは悩みぬいた末に決心します。「ひそかに縁を切ろう」。
 これが「正しい人」の精一杯の判断と決心でした。人を罪から救うことは、どれほど正しい人の正しさによってもどうにもなりません。罪は到底人の手には負えないのです。なぜマリアは身ごもったのか。ただ一言「聖霊によって」だと言います。神ご自身がマリアに触れて、マリアの胎に宿られた。神ご自身、神の御子がここに介入されたのだと。マタイは、正面からチャレンジしています。あなたはこれを信じるか、と。普通の人は、おとぎ話にありそうな話だと思うだけでしょう。
 ただ、ここで試みられ、激しい苦悩の中に一人閉ざされているのは、ヨセフなのです。誰にも相談できない。自分でもどうしてよいか分からない。その中で「ひそかに縁を切ろう」と決意した。「ひそかに」なんて可能なのか。マリアのお腹は大きくなって、婚約していたのにどうしたのか、と問われてしまう。しかし、もうそうする以外にない。
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」というのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った」。その子は、「自分の民を罪から救う」と。「イエス」という名は「主は救い」という意味です。神から離れ、恐れと悩みに満ち、恥と汚れが拭えない罪の現実から、神が「救う」のだと。ヨセフは戸惑ったでしょう。誰から注目されることもない自分たちに、なぜ神は来られたのか。しかも、まだ正式に結婚もしていない。姦通の罪に問われたらどうなるか。こんな、死に晒された、惨めな夫婦の子として、神は来てしまわれたのか。
 クリスマスを迎えるこの時期「アドヴェント(待降節)」は、来る、到来するという意味ですが、敢えてやって来る、というニュアンスがあります。簡単に来たのではない。命を危険に晒してボロボロになっても来る! アドヴェントはアドベンチャー。命をかけた神の決意と行動です。冒険家がどれほどの危険に晒されたかは、その姿に表れます。服も靴もすり切れ、体もボロボロ。世に来られた神はどうか。家畜小屋に寝かされた赤ん坊。そして最後は、文字通りボロボロにされて十字架に血祭りに上げられる。この神のなさりようがアドヴェントです。こうしてまで、神は私に来られた。その事実に触れて、神をほめたたえるのがクリスマスです。
 この神の決意は、古の昔から預言者たちを通して告げられていました(23節)。人間に対する神の決意を一言で言えば、「インマヌエル」。神は、私たちのような人間と共にいる。そう決意しておられるお方です。罪の中にある私たちを見限らず、神から見捨てられたとしても仕方のない者であるにもかかわらず、救うというのです。
 ヨセフの心中がどうなったのか、聖書は語りません。ただ一つはっきりしていることは、彼は自分の正しさに基づく判断に従ったのではなく、主の言葉によって、思いを変えられ、自分でも思いもしなかった決断をした、ということです。正しい自分の独り決めではなく、私に語りかけ、働きかけ、私を動かし、生かしておられる神に、自分を開いたのです。
 ヨセフは「眠りから覚め」ます。しかし、目覚めて見る現実は、悩ましい現実のまま。むしろこれから大変なことになります。しかしヨセフは、神の決意によって決断し、生きる者とされています。この悩ましい現実の中に、神は来てしまわれたと知ったからです。私のような者と「共にいる」と決意しておられる。私たちを救うために。まさに、生まれてくる子は「イエス」、主は救いだと。