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天の国に入る者

説教要旨(7月28日 朝礼拝)
マタイによる福音書 7:21-23
牧師 藤盛勇紀

 「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない、天の父の御心を行う者だけが入る。「かの日」すなわち主が再び来られる終わりの時。それは主の裁きの時、最終的な精算が行われる時でもあります。そこで、大勢の者が主に対してこう言うのだと。「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」。これは、直前の箇所から読むと分かりますが、イエス様が「偽預言者」と言った人たち、あるいはその同類の人々のことです。周りからは、素晴らしい働きだ、さすが信仰者だ、それこそ愛の業、善い働き、素敵な働きをしていると思われる人たちです。なのに主は、「あなたたちのことは全然知らない」と言われるのです。何がいけないのでしょうか。
 「終わりの時」について25章で語られています。主は羊を右に、山羊を左に分ける(⇒26:34~39)。主は、私たちが命を得て救われるために、「私は」「私が」と、自分と自分の働きを前に出す者を主は嫌われるのです。「これをしたら神から認められる、愛される、救われる」などと考える。それは「羊の皮をまとう狼」たち、イエス様を憎んだ律法主義者たちの考え方、生き方です。永遠の命を得るために、私は何をすればよいのか。私は何をしたら認められるのか、私は何をしたら救われるのか、私は、私は…。
 主はこう言われたではないですか。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る」(16:24~25)。
 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うんです。なのにまた、相変わらず人は問う。「では、自分の十字架を背負うとは、何をすればいいのですか」。そう考えるのは、キリストと共に十字架に付けられて、すでに死んでいる「古いあなた」です。だから「何をしたら」などという問い自体、意味がないのです。なのにあなたはまだ古い自分にしがみついたままで、恵みをいただいていないのです。
 キリストを信じた者は、主の霊を吹き込まれて「新しい人」として新しく創造されたではないですか。命を与える霊が内に住んでいてくださるんです。だったら、「私は、何をしたらよいのか」ではなく、「私は、どんな者としていただいているのか」でしょう。
 「命を与える霊」となられたキリストが私たちの内に住んでおられます。だから、新しい私は、その霊によって生きます。それで、パウロは言ったんです。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。私はキリストにあって十字架に付けられて、古い私はすでに死んでいる。そして命を与える霊、主ご自身の霊が、新しい私の霊に生きておられる。これを日々、主と共に確かめて、味わって生きるんです。
 主は、自分を捨てて「日々」自分の十字架を背負って、私に従いなさいと言われました(ルカ9:23)。「自分の十字架を背負う」とは、自分の重荷や苦難を負って、歯を食いしばって生きることではありません。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし」は徳川家康。しかし、イエス様は「重荷を負う者は、誰でも私のもとに来い」です。「あなたの重荷をあなたの十字架として、死ぬまで負って頑張って行け」ではなく、「私に来て重荷を下ろせ、休ませてあげる」です。そして「私の軛を負いなさい」「私の軛は軽いから」と。
 だから、主の前で「私はこうました。ああしました」なんて言う必要はないんです。主が十字架についてくださったのは、あなたに命を与えたいからです。「私は良い羊飼い」だと主は言われました。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」だと(ヨハネ10章)。主は、私たちに命を豊かに受けてほしいんです。そのために主が十字架にかかり、「命を与える霊」となって私たちの内で生きてくださっています。
 私たちはこの恵みによって救われたのですから、ただ主から来るものをいただいて、主につながって、交わりをいただいて、お応えして、豊かに生きるのです。それが父の御心ですし、そこに天の国、神の国が始まっているのです。