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神の国は来る

説教要旨(11月10日 朝礼拝)
マタイによる福音書 20:1-16
牧師 小宮一文

 イエスさまはこのぶどう園のたとえ話を通して父なる神さまがどのようなお方であるかを語っています。このぶどう園の主人の求人活動には最初から変なところがありました。ぶどうをより多く収穫しようと思ったら手あたり次第、人を引っ張ってくるべきですが、この主人はある様子をした人はいないかと、広場を見回すようにして数時間おきに来ています。
 主人が探して声をかけていた人たちには特徴がありました。それは「何もしないでそこにいた」ということです。主人が探していたのはそういう人たちでした。だれにも雇われず、ただそこにいるしかない、そんな人間のあり方を、神さまは「良くない」と思う方であるということです。
 広場にいたある人は「だれも雇ってくれないのです」と言いました。これはとてもみじめな告白です。だれもわたしを必要としません。そういう人に神さまは「それは違う」と言う神さまであるということをイエスさまは開き示してくださっています。
 このたとえ話を読むと、マザー・テレサのことを思い出します。マザー・テレサはさまざまな偉大なことをした人だと思います。福祉、医療、教育など。しかしマザー・テレサのすごさというのは召命の信仰をひたすらに語り続けたことにあるのではないかと私は思っています。
 病気になって家族から見捨てられ、道端に捨てられている人たちに対して「あなたも大切な人ですよ」「あなたにはやることがあるんですよ」と言い続けました。ここには感傷的な慰めなどありません。徹底的に命の方向を向いています。
 これを言われた人たちは困ったと思います。自分は病気で体をもう満足に動かすこともできない。でもマザー・テレサは無為というものを認めないのです。広場で人を探すこの主人の目も、マザー・テレサと同じ目をしていたと思います。「あなたも大切な人ですよ」「あなたにはやることがあるんですよ」。そう言われた人たちは「自分はもう動けないのに、マザーは厳しいなあ」と思いつつも、外から来る何かに押し出されるように、しっかりと、たしかな重みを持って立ち上がったのだと思います。動けなくても、その人たちは立ち上がったと私は思っています。神さまはそのような方であるという事実だけが、人に命を与えるのです。
 朝から働いていた人たちも最後のときまでは喜んで働いていたと思います。しかし渡されたお金が一デナリオンだったとき、それまでのことは一瞬で辛抱事となってしまいました。この人たちの心にあったのは、お金がどうこうということではなかったと思います。後から来た人たちよりもほんのわずかでもいいから評価されたいということだったと思います。「わたしは後から来た人よりこんなにがんばってきました」。ただそれを認めてほしかっただけだと思います。
 しかしイエスさまはそのような人たちに「既に報いを受けている」(マタイ6:2)と言うのです。もうあなたたちはそうやって自分を誇れるじゃないか。わたしがあなたたちに何かを与えたくても、あなたたちの手は誇りでいっぱいになっているので、与えたくても与えることができないのだ。
 なぜこの人たちはぶどう園での働きが辛抱でしかないことになってしまったのでしょうか。「主人が自分を必要としてくれた」という喜びを忘れたからです。ここでイエスさまは山上の説教の最初の言葉をもう一度伝えようとしておられるのではないかと思います。
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。心の貧しい者が幸いなんだよ、神の国はその人たちにあるんだよ、だから思い出してほしい、広場で立ち尽くすしかなかったときの自分を、そこでわたしに会ったことを。
 誇れるものを持たない、神さまに頼るしかない、そんな心の貧しい人や幼子を、神さまは「幸いだ」と喜ぶのです。自分の命を自分で救おうとすれば、それを失います。そうではなく、自分を誇る生き方なんて捨ててしまえ、そしてわたしのぶどう園に来なさい、あなたが必要だ、と神さまは言っているのです。