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病も罪も負う主

説教要旨(8月25日 朝礼拝)
マタイによる福音書 8:14-17
牧師 藤盛勇紀

 大勢の人々が悪霊に取りつかれた人や病人をイエスのもとに連れて来ました。するとイエスは病人は皆、癒やされた。こうした癒やしの業は言わば日常でした。マタイは、これは預言者が語ったことの成就だと言います。預言者は、神の言葉を預かって語ります。神は何を語られたのか? それは、罪と死にある人間のための救いの約束です。
 神から離れて真の命を失い、なぜ、何のために生きているのか分からない人間。分からないまま、取り合え得ず生きている。そんな人間に、神は「生きよ」と願っておられます。そして真の命を与え、生きるべき方向も与え、この地上を歩む力をも与えようとしておられます。この救いの計画、真の命をもたらす言葉が預言です。そのために神は、この世を歩む人間の歴史と人生に介入して語られます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:11)。
 悲惨な出来事や思いがけない病気や事故に遭ったりしたとき、人はよくこう思います。「神は何をしている。なぜこんなことを許すのか」「神は人を憎んでいるのではないか。救うどころか、滅ぼそうとしている」「なぜ、私が…」。人間は無意味に耐えられませんが、意味の探求も終わりがありません。人が生まれたら、生きて、死ぬ。当然ですが、なぜそうなのか分からず、ただ途方に暮れます。それで、イエスのもとにいつも大勢の病人や悪霊に取りつかれた人々が連れて来られる。
 しかし、人々はなぜこのイエスのもとに来たのでしょうか。イエスはどんな病も癒やすことができるという噂が広がっていた。そして、病気が癒やされることはもちろん嬉しいことですが、それが苦悩や不安の解決かと言えば、そうではありません。二度と病気にならないわけではなく、死ななくなったわけでもない。人はいずれまた病み、衰え、死ぬのです。死に向かっていながら「癒やされる」とはどういうことなのか。
 私が神学校を卒業して間もなく、ある信徒のご主人が病床洗礼を受けられました。もう死の床。主任牧師と共に尋ね、洗礼と聖餐が執行されました。その方の顔は、死の病のせいか、信仰など無縁のような人生が刻まれていたからか、怖い顔に見えました。ところが、「これであなたはイエス様に結ばれて神のもの、神の子」と知って、一気に破顔。音がしたかと思えたほど、喜びにほころびました。
 その死の床にあった事実は何か。そこにイエスがおられたこと。そして、イエスを信じた人に真の命が来たことです。私は聞こえた気がしました。「あなたの信仰があなたを救った」。「今日、救いがこの家を訪れた」。そのイエスのお言葉です。「人の子は、失われたものを捜して、救うために来たのだ」。
 救いは、来る! 救いの方が、捜して来る。マタイは、このイエスに来ている!と告げています。この到来は、創造主なる神が初めから計画し、この地上の歴史の中で繰り返し語り、神が選んだイスラエルの民の歩みを通して、証ししておられたのだと。
 マタイはイザヤ53章の言葉を引用します。私たちのために来るメシアは、どんなお方なのかを語った代表的な預言です。しかし、イザヤは言います。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」(53:1)。
 やがてイエスは捕えられ、鞭打たれて丸裸で、最も惨めな姿で十字架にかけられます。「イエスを十字架につけよ」と人々は叫び、あるいは、人を癒やすことができたのに自分を救うことはできなかった、と失望します。「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」(53:4)。人は、苦しみの意味、も、健やかであることの意味も分からず、十字架の周りでこの方を罵り嘲り、失望しながら、ただ死に向かって進むだけ。
 しかし、真の命と喜びを与えてくださる神が、このイエスに来ていると信じた者は、病気からも健康からも解放されます。病をイエスは担い、私はイエスに担われ、神に負われた。私は神を軽蔑し侮り、捨てたのに、その罪をもイエスは負ってしまわれた。彼の受けた懲らしめによって、私に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私は癒やされたと。