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命の主なる神

説教要旨(4月24日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 3:4-9
牧師 藤盛勇紀

 「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』「わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」と、すでに1章で指摘されていた問題です。私はパウロ先生、私はアポロ先生、いやペテロ先生…。今日でもあり得る話ですが、単なる好みの話では済まない教会分裂、崩壊の危機です。
 パウロは少々呆れたように問います。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」。福音宣教者の働きによってコリントの人々はキリスト信仰に導かれました。「何者か」との疑問詞は中性で、それぞれどんな人物かという問いではなく、「何か」という問いです。「アポロ?それが何なのだ?」「パウロがいったい何だ?」と。
 ただ、アポロはこうで私パウロはこうだとは言わず、「どちらも仕えた者なのだ」と言います。優れた霊的指導者たちも、分に応じて仕える「奉仕者」であって、アポロはこんな力があるから特別だとか、パウロはこんな働きをしたからどうだということはない。その意味ではパウロもアポロもペトロも「何でも無い」。彼らが信仰を生んだわけでもないし、成長させたわけでもない。ただ、成長のために「仕えた者」なのだ。だから、大切なのは植える者も水を注ぐ者でもない。「成長させてくださる」のは「神」だけなのだ、というのです。
 信仰はある意味で単純です。救いは、キリストを信じることのみによりますし、「あるかないか」でもあります。しかし、この世にあって信仰によって生きる生活では、常に私たちを神から引き離そうとする力が働いていますし、キリストの信仰が空しいかのように思わせる様々な思想や人間の知恵があります。そうした力が常に働いていて、決して無くなることはありません。
 だから、その力に支配されないように、常に支えられ、力づけられ、養われつつ導かれる必要があります。信仰はまさにそうした生活であり、成長する歩みです。それを支え導くのは神の言葉ですし、御言葉中心の生活となりますが、人それぞれ様々な賜物が与えられていて、神がそれぞれの賜物を用いてくださいます。いずれにしても「成長させてくださったのは神」です。
 何も無い所からは、成長もありません。まず種が蒔かれますから、種を蒔いたり植えたりする者が命を生み出し、育む者のように思われるかも知れませんが、そうではありません。大事なのは「種」自体です。種に命があるので、種は自ずと芽を出します。それは人から見ればまさに自然に成長するように見えます。主イエスの「成長する種」のたとえの通りです(マルコ4:26-28)。主は「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われましたが(マタイ17:20)。小さくてよい、ということではありません。「種」のように命を宿しているかどうかです。
 私たちの神は万物の創造主にして命の主です。御子イエスご自身が多くの人に命を与えるために「一粒の麦」となられました。命の種となられた主に信頼して、私たちも命ある種を蒔くのです。種自ら芽を出すので、私たちはその成長のために「仕える者」なのです。そして「あなたがたは神の畑、神の建物」だと言います。私たちは、神が成長させてくださる実りが現れる「神の畑」です。痩せた土地かもしれないし、石地の土地かもしれない。だから耕したり、植えたり、水を注ぎ合うことが必要なのです。そんな私たちに実りがもたらされることによって、私たちが「神の畑」であるこが分かります。私たちは一人では「神の畑」にはなれず、実を付けることもできません。だから私たちは「神の建物」なのです。様々な部材が組み合わされ、支え合って、体のように一つの建物とされています。神はその私たちの内に、私たちの間に生きておられます。「神の国はあなた方の間にあるのだ」とイエスが言われた通りです。